ジョン・バークリー (第5代ストラットンのバークリー男爵)
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第4代ストラットンのバークリー男爵ウィリアム・バークリーとフランシス・テンプル(アイルランド庶民院議長(英語版)サー・ジョン・テンプル(英語版)の娘)の息子として生まれた[1]。1707年にイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1713年8月13日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[3]。
1719年に国王ジョージ1世が大北方戦争でロシア帝国とスウェーデン帝国の仲介を申し出たとき、ロシア皇帝ピョートル1世のもとに派遣された[2]。
1735年2月に野党派ホイッグ党の一員としてストックブリッジ選挙区(英語版)で当選、議会でも野党として演説、投票した[2]。1741年3月24日に父が死去すると、ストラットンのバークリー男爵の爵位を継承した[1]。1743年、カートレット男爵(1744年にグランヴィル伯爵を継承)はバークリー男爵に褒賞として国王親衛隊隊長の職を与えたが、グランヴィル伯爵が1746年に組閣を試みて失敗すると(短命内閣)それを失った[2]。
1752年2月、枢密顧問官に任命された[4]。その後、1755年から1756年まで王室会計長官(英語版)を、1756年から1762年まで恩給紳士隊隊長を、1762年から1770年までタワー・ハムレッツ統監(英語版)とロンドン塔管理長官(英語版)を務めた[1]。
1773年4月18日に死去、妻との間で息子を儲けなかったため、後継者がなくなり爵位は断絶した[1]。遺産は第5代バークリー伯爵フレデリック・オーガスタス・バークリー(英語版)が継承した[1]。
家族
妻はエリザベス(Elizabeth)といい、1776年12月頃に死去した[1]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 149.
- 1 2 3 4 Watson, Paula (1970). "BERKELEY, Hon. John (c.1697-1773), of Bruton, Som". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月2日閲覧。
- ↑ Foster, Joseph, ed. (1891). "Bennell-Bloye". Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語). Oxford: University of Oxford. pp. 106–141.
- ↑ "No. 9140". The London Gazette (英語). 11 February 1752. p. 2.
| グレートブリテン議会(英語版) | ||
|---|---|---|
| 先代 サー・ハンフリー・モノックス準男爵(英語版) ジョン・モンタギュー |
庶民院議員(ストックブリッジ選挙区(英語版)選出) 1735年 – 1741年 同職:サー・ハンフリー・モノックス準男爵(英語版) |
次代 チャールズ・チャーチル(英語版) マシュー・ラム(英語版) |
| 名誉職 | ||
| 先代 初代コーンウォリス伯爵 |
タワー・ハムレッツ統監(英語版) 1762年 – 1770年 |
次代 第2代コーンウォリス伯爵 |
| ロンドン塔管理長官(英語版) 1762年 – 1770年 | ||
| 公職 | ||
| 先代 エセックス伯爵 |
国王親衛隊隊長 1743年 – 1746年 |
次代 トリントン子爵 |
| 先代 フィッツウォルター伯爵 |
王室会計長官(英語版) 1755年 – 1756年 |
次代 ベートマン子爵(英語版) |
| 先代 バッキンガムシャー伯爵 |
恩給紳士隊隊長 1756年 – 1762年 |
次代 リッチフィールド伯爵 |
| イングランドの爵位 | ||
| 先代 ウィリアム・バークリー |
ストラットンのバークリー男爵 1741年 – 1773年 |
断絶 |