ジョン・ポンソンビー (第5代ベスバラ伯爵)
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第4代ベスバラ伯爵ジョン・ウィリアム・ポンソンビーと妻マリアの長男として、1809年10月14日に生まれた[2]。1822年から1826年までチャーターハウス・スクールで教育を受けた[1]。
1831年初にグレイ伯爵内閣が第1回選挙法改正の法案を起草したとき、父が起草にかかわり、ポンソンビーも父を手伝った[1]。法案の否決により解散総選挙が行われると、ポンソンビーはホイッグ党のウィリアム・ラッセルの後援を得てブレッチングリー選挙区から出馬、無投票で庶民院議員に当選した[1][3]。議会で第1回選挙法改正に賛成票を投じた後、首相グレイ伯爵の意向により、同年7月に議員を退任して議席をインド庁秘書官トマス・ハイド・ヴィリアーズに譲った[3]。同年10月、祖父の姉の夫にあたる第4代フィッツウィリアム伯爵の後援を受けて、フィッツウィリアム伯爵の懐中選挙区であるハイアム・フェラーズ選挙区の補欠選挙に出馬、無投票で当選した[1][4]。2度目の議員期にも選挙法改正に賛成したが、演説の記録はなかった[1]。
第1回選挙法改正によりハイアム・フェラーズ選挙区が廃止され、ポンソンビーは続く1832年イギリス総選挙で議席を見つけられなかった[1]。代わりに外務省で1833年5月から1834年11月まで外務大臣の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルの部下として要約筆者(précis writer)を務めた[1]。パーマストン子爵は厳しい人物であり、しかも務めている間(1834年3月)に母が死去したため、1835年イギリス総選挙でホイッグ党候補としてダービー選挙区から出馬したとき、ポンソンビーは突如神経衰弱に陥った[1]。それでも724票(得票数2位)で当選し、以降1837年に791票(得票数2位)、1841年に784票(得票数2位)で再選した[5]。
1838年にカーロウ県長官を務め[2]、同年11月から1880年に死去するまでカーロウ統監を務めた[6]。
1847年5月16日に父が死去すると、ベスバラ伯爵位を継承した[2]。
第1次ラッセル内閣期の1848年5月16日にバックハウンド管理長官に任命され[7]、同年6月27日に枢密顧問官に就任した[8]。1852年2月に内閣が倒れると辞任した[9]。アバディーン伯爵内閣期の1852年12月30日に再びバックハウンド管理長官に任命され[10]、第1次パーマストン子爵内閣で続投したのち、1858年2月に内閣が倒れると辞任した[11]。第2次パーマストン子爵内閣期の1859年6月18日に三たびバックハウンド管理長官に任命され[12]、第2次ラッセル内閣で続投したのち、1866年1月に王室家政長官に転じ[13]、内閣が倒れると1866年7月に辞任した[14]。第1次グラッドストン内閣期の1868年12月12日に再び王室家政長官に就任[15]、内閣が倒れると1874年3月に辞任した[16]。
1880年1月28日にベスバラ・ハウスで死去、2月3日にキルケニー県フィッダウンで埋葬された[2]。2度の結婚で子女をもうけず、爵位は弟フレデリック・ジョージ・ブラバゾンが継承した[2]。
「貴族に与えられる、仕事で押しつぶされないような官職」の話題になったとき、ベスバラ伯爵が「バックハウンド管理長官」と答えたという逸話があったが、保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリはベスバラ伯爵を「判断力と機転が素晴らしい」と評価した[1]。