ジョン・マッカーサー
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ジョン・マッカーサー | |
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| 生誕 |
John Macarthur 1767年 |
| 死没 |
1834年4月11日 |
| 職業 | 軍人・実業家・政治家・建築家 |
| 著名な実績 | オーストラリアにおける農業発展の基礎を構築 |
ジョン・マッカーサー(英語: John Macarthur、1767年 - 1834年4月11日[1][2][3][4])は、イギリス・プリマス出身の軍人・実業家・政治家・建築家。イギリス領オーストラリアにおける農業発展の基礎を構築したほか、1808年から1810年にはラム酒の反乱と呼ばれる暴動の黒幕となった。
19世紀初頭のイギリス領オーストラリアで発展した羊毛産業の先駆者であるとされる。シドニー郊外のパラマタに広大な農場エリザベス農場を所有し、農場の建物の設計を自ら行った。建築家のジョン・ヴァージにカムデン・パーク・エステートの設計を委託されたことでも知られる。
父親のアレクサンダー・マッカーサーは1745年のジャコバイトの反乱後に西インド諸島に逃れ、イングランド帰国後には布地屋や服飾店を経営していたという[5]。1767年、ジョン・マッカーサーはアレクサンダーの二男としてイングランドのプリマスに生まれた。正確な誕生日は不明だが、1767年9月3日を誕生日として登録していたことが知られている[6]。マッカーサー自身は姓をM'Arthurと綴る期間が長かったが、しばしば綴り方がMacArthurに変化している。最晩年になってMacarthur(4文字目のaが小文字)という綴り方を使用した[7]。
1788年10月にはエリザベスと結婚し、1789年にニューサウスウェールズ軍団に加入して中尉となった。1788年にはアーサー・フィリップ初代ニューサウスウェールズ総督率いるファースト・フリート(最初の囚人船団)がイギリス領オーストラリアに入植を開始しており、ネプチューン号に乗り込んだジョンとエリザベスの2人はセカンド・フリートで1790年にオーストラリア・シドニーに到着した。1805年には広大な農場を取得し、商業的な利権を得た。第4代ニューサウスウェールズ総督のウィリアム・ブライとは対立し、1808年から1810年にはラム酒の反乱と呼ばれる総督に対する暴動の黒幕となった。マッカーサーは自身の不正行為を認めて有期の国外追放処分を受け、フランスでブドウの木を収集して栽培技術を習得した上で、1817年に再びオーストラリアに渡った[8]。マッカーサーはオーストラリアで初めて商業的なワインの生産を行った人物であり、カムデンやペンリスでワインを生産した[8]。