ジョン・リチャードソン (美術史家)

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生誕 John Patrick Richardson
(1924-02-06) 1924年2月6日
イングランドの旗 イングランド ロンドン
職業 美術史家、工業デザイナー
Sir

ジョン・リチャードソン

John Richardson
生誕 John Patrick Richardson
(1924-02-06) 1924年2月6日
イングランドの旗 イングランド ロンドン
死没 2019年3月12日(2019-03-12)(95歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク
出身校 スレード美術学校
職業 美術史家、工業デザイナー
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サー・ジョン・パトリック・リチャードソン(Sir John Patrick Richardson, KBE, FBA1924年2月6日 - 2019年3月12日)は、イギリス出身の美術史家であり、パブロ・ピカソの伝記で知られる。

若年期と教育

リチャードソンは1924年2月6日にロンドンで生まれた[1]。父はボーア戦争の主計総監であり、イギリスのデパートチェーン「アーミー・アンド・ネイビー・ストア英語版」の創業者であるウッドハウス・リチャードソン(Wodehouse Richardson)である。リチャードソンは第一子であり、妹と弟がいる[2]。1929年、リチャードソンが5歳のときに父が死去し、母パティはリチャードソンを寄宿学校に送ったが、そこでの生活は不幸なものだった。13歳のときにストウ・スクール英語版に入学し、そこで建築や景観に関心を持つようになり、ピカソなどの革新的な画家の作品について学んだ。

第二次世界大戦が勃発する1939年頃には芸術家になることを志していた。17歳になる1か月前にスレード美術学校(当時はオックスフォードに疎開していた)に入学し[1]、そこでジェフリー・ベニソンやジェームズ・ベイリーと知りあった。兵役に招集され、アイルランド近衛連隊に入隊したが、すぐにリウマチ熱に罹患し、陸軍から除隊された[3]。この時期にフランシス・ベーコン[4][5][6]ルシアン・フロイド[7]と友人になり、2人は後にリチャードソンの肖像画を描いている[8]。第二次世界大戦中は、家族とともにロンドンにいた[9]。その間、工業デザイナーとして働き、後に『ニュー・オブザーバー』で評論も行った[10]。同性愛者であったリチャードソンは、1949年に美術史家・収集家のダグラス・クーパー英語版と知り合い、その後10年間を共に過ごした[11]

プロヴァンス

クーパーがアヴィニョン近郊のシャトー・ド・カスティーユフランス語版を購入して初期キュビズムの私立美術館に改装したことをきっかけに、1952年にリチャードソンはプロヴァンスに移住した[12]。クーパーは第二次世界大戦以前からパリのアートシーンで活動し、美術ビジネスでも成功していた[13]。クーパーは自身のコレクションの構築の過程で多くの芸術家と知り合い、友人たちに紹介していた。リチャードソンもクーパーを通じて、ピカソ[14]フェルナン・レジェニコラ・ド・スタールらと友人になった。この時期、リチャードソンはピカソの肖像画に関心を持ち、それをまとめた出版物の刊行を考えた。この計画は、それから20年以上後、全4巻のピカソの伝記"A Life of Picasso"[注釈 1]に発展し、最終巻は2022年に出版された[18]

ニューヨーク

1960年、リチャードソンはクーパーと別れてニューヨークに移住した。1962年に9つの画廊でピカソの回顧展を開催し、1964年にはジョルジュ・ブラックの回顧展を開催した。その後、クリスティーズからアメリカ事務所の開設責任者に任命され[1]、9年間その運営に携わった[19]。1973年にニューヨークの画廊M・クドノーラー・アンド・インクに19世紀・20世紀美術担当ヴァイス・プレジンデントとして入社し、後に、美術品専門の投資信託会社アルテミスの業務執行取締役に就任した[20]

1980年に執筆活動に専念することを決意した。後述のピカソの伝記だけでなく、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス英語版[21]、『ザ・ニューヨーカー[22]、『ヴァニティ・フェア[23]にも寄稿した。

1993年にイギリス学士院フェローに選出され、1995年にオックスフォード大学スレード記念美術教授英語版に任命された[19]

ピカソの伝記

リチャードソンによるピカソの伝記"A Life of Picasso"[注釈 1]は、当初は単巻で刊行の予定だったが、最終的に全4巻となった。1991年に刊行された第1巻は、ピカソの誕生から1906年までの25年間を描いたもので、1991年のウィットブレッド賞伝記部門を受賞した。1996年11月に刊行された第2巻は、1907年から1916年までの期間、すなわちキュビズムの時代を取り上げた。2007年に刊行された第3巻は、ピカソが50歳となった1932年までを扱っている[24]。第4巻は1930年代から1944年のパリ解放までを取り扱う予定だったが、刊行が遅れた。当初は2014年にアルフレッド・A・クノップ英語版社から刊行される予定だったが、2016年のアラン・エルカーン英語版とのインタビューではまだ執筆中だと語っていた。このインタビューでは、執筆と調査を補助する3人の助手とともに週末を含めて毎日執筆していると述べ、この時点で1939年まで執筆を終えており、早く戦争の時期の執筆を終わらせたいと語っていた[25][26]。第4巻の完成を待たずして、リチャードソンは2019年に死去した。リチャードソンが残した原稿を元に協力者によりまとめられた第4巻は、1943年までのピカソの生涯が書かれており、2021年11月に刊行された[27][15]

晩年

クーパーの死から15年後の1999年、リチャードソンはクーパーとの思い出を書いた回顧録"The Sorcerer's Apprentice: Picasso, Provence, and Douglas Cooper"(魔法使いの弟子: ピカソ、プロヴァンス、ダグラス・クーパー)を執筆した。また、エッセイ集"Sacred Monsters, Sacred Masters"(聖なるモンスター、聖なるマスター)を2001年に刊行した。リチャードソンは、ニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで開かれたピカソの晩年の作品の展覧会"Mosqueteros"(スペイン語で「銃士」)のキュレーターを務めた。2010年には、ロンドンのガゴシアン・ギャラリーで開催された展覧会「ピカソ: 地中海の時代(1945年 - 1962年)」(Picasso - The Mediterranean Years (1945-1962))を企画した[28]。2011年、ニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで開催された展覧会「ピカソとマリー=テレーズ: 狂気の愛」(Picasso and Marie-Thérèse: L’amour fou)のキュレーションを、ピカソとマリー=テレーズの孫に当たるディアナ・ウィドメーアー・ピカソと共同で行った。リチャードソンは、この展覧会に関連する書籍も執筆した[29][30][31]

2011年にフランスの芸術文化勲章を、2012年に大英帝国勲章ナイト・コマンダーを受章した[32][33]

リチャードソンは2019年3月12日にニューヨークで死去した。95歳だった[34]

著作物

映画

脚注

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