ジョン・ロバート・カー
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シドニーの労働者階級に生まれる。シドニー大学卒業後兵役を経て弁護士を開業。労働組合の代理人を多く務め、やがてオーストラリア労働党に入って政治活動を始めた。しかしハーバート・エバット体制下での左傾化と、その結果としての1955年の党分裂で政治に幻滅する。
1966年に連邦産業裁判所(2004年廃止)裁判官、1972年にニューサウスウェールズ州首席判事を務め、1974年に総督に就任した。
1975年11月11日、上院での予算案審議の拒絶を理由に、カーはオーストラリア憲法第64条の規定に則ってゴフ・ホイットラム首相を罷免した。これ自体は憲法に違反しないものの、ホイットラムに罷免を通告した総督公邸での会見の際、彼には秘密で後継のマルコム・フレーザーを別室に待機させ、組閣を命じるなどの行動をしており、総督が従うべき憲法的慣習に反しているとして物議を醸した。この後、カーは労働党とその支持者から批判を浴び続け、結局体調不良を理由に1977年12月に総督を辞した。辞職に際してフレーザーは、カーをイギリスの枢密顧問官に推薦したが、当時のイギリス首相ジェームズ・キャラハンに拒否されている。
その後カーをユネスコ大使に推薦する声が寄せられたが、当時の労働党党首ビル・ハイドンは「あらゆる点でこの国に対する侮辱」と反対を表明し、この計画も頓挫した。
その後、カー夫妻はオーストラリアを離れ、主にヨーロッパに滞在する様になったが、特に大きな行動をとる事も無く、1991年にシドニーで亡くなった。
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