ジョージ・コヴェントリー (第8代コヴェントリー伯爵)
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第7代コヴェントリー伯爵ジョージ・ウィリアム・コヴェントリーと2人目の妻ペギー・ピッチェス(Peggy Pitches、1759年ごろ – 1840年1月15日、サー・エイブラハム・ピッチェスの娘)の息子として、1784年10月16日に生まれた[1]。1801年よりウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[3]、1802年2月4日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[4]。1803年10月1日、ウスター志願歩兵連隊(Worcester Voluntary Infantry)の司令官に任命された[5]。
1812年イギリス総選挙でウスター選挙区から出馬、現職議員で海外滞在中のウィリアム・ゴードンを余所者だとして攻撃したが、855票(得票数3位)しか得られずに敗れた[6]。1816年12月の補欠選挙では妥協の結果無投票で当選、1818年イギリス総選挙は選挙戦になったが、ディアハースト子爵以外の立候補者2人の戦いという性格が強く、ディアハースト子爵は1,422票でトップ当選した[6][3]。総選挙の後は選挙申し立てが行われたが、「取るに足らない濫訴」(frivolous and vexatious)として却下された[6]。1820年イギリス総選挙ではウスターの地方自治体からの支持を受けて、無投票で再選した[7]。
議会では会議への出席率が低く、投票においても独自路線をとった[2]。採決ではカトリック解放に反対(1817年5月、1821年2月、1822年4月、1825年3月)、刑法改革に支持(1821年5月、1821年6月、1822年6月)、スコットランド貴族代表議員選挙の制度改革に反対(1823年6月)したが、1817年2月にウスターからの選挙改革請願を提出した[3]。
1826年5月23日、ウスターシャー副統監の1人に任命された[8]。同年6月の総選挙でははじめ立候補を表明したが、投票の10日前になって突如副統監への任命と「ほかの事柄において私のおかれた状況」(the situation in which I am in other respects placed、『英国議会史』では選挙戦の費用を暗示した言葉だとしている)により立候補を取り下げた[2][7]。これにより、地方自治体とその支持者から「敵前逃亡」(desertion)と責められ[6]、1830年イギリス総選挙では妹からウスターで二度と当選できないだろうと評された[2]。『英国議会史』では風評の悪さを不出馬の理由の1つとして挙げた[2]。
1830年7月19日、国王ジョージ4世の葬式に出席した[9]。1831年3月26日に父が死去すると、コヴェントリー伯爵位を継承した[1]。同年9月8日、国王ウィリアム4世の戴冠式に出席した[10]。貴族院では第1回選挙法改正への態度で揺れ、1831年に反対票を投じたが、1832年に賛成票を投じた[1]。コヴェントリー伯爵から初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャントへの手紙によれば、これは「不決断の有用さ」(usefulness of indecision)に気づいたためだとした[2]。ただし、1832年以降は概ね保守党を支持した[2]。
1838年、ウスターシャー民兵隊隊長に任命された[2]。
1843年5月15日にピカデリーのコヴェントリー・ハウス(Coventry House)で死去した[1]。長男ジョージ・ウィリアムに先立たれたため、孫ジョージ・ウィリアムが爵位を継承した[1]。
人物
ホランド男爵夫人エリザベス・ヴァサル=フォックスは1816年の手紙でディアハースト子爵が放蕩と道楽によりウスターで嫌われていると評した[2]。同時代のハリエッテ・ウィルソンはコヴェントリー伯爵を放蕩、けちで低俗な貴族(a profligate nobleman, stingy and unwashed)と評したが[3]、『完全貴族名鑑』ではウィルソン自身も放蕩さについてよく知っている(herself no mean judge of profligacy、「ウィルソン自身も放蕩だった」の意味)と評した[1]。