ジョージ・チャムリー (初代チャムリー侯爵)
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マルパス子爵ジョージ・チャムリー(1724年10月17日 – 1764年3月15日、第3代チャムリー伯爵ジョージ・チャムリーの息子)と妻ヘスター(Hester、1727年ごろ – 1794年9月3日、第4代準男爵サー・フランシス・エドワーズの娘)の息子として、1749年5月11日にノーサンプトンシャーのハーディングストンで生まれた[1]。
1764年3月15日に父が、1770年6月10日に祖父が死去すると、チャムリー伯爵位を継承した[1]。1770年7月14日にチェシャー海軍次官に任命され、1827年に死去するまで務めた[2]。1770年7月19日にチェシャー統監に任命され、1783年5月まで務めた[3]。
フォックス=ノース連立内閣期の1783年4月14日に枢密顧問官に任命された[1]。1783年4月30日に国王親衛隊隊長に任命され、同年12月31日までに退任した[4]。1795年5月にウェールズ公ジョージ(のちの国王ジョージ4世)の侍従長(Chamberlain)に任命され、1800年ごろまで務めた[5]。政界では1797年に第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポールからキャッスル・ライシング選挙区の1議席への影響力を継承した[6]。オーフォード伯爵家はアシュバートン選挙区にも影響力を有したが、アシュバートンでの不動産はロバート・トレフュージスが継承したため、チャムリー伯爵はトレフュージスの相続を定めた遺言状の有効性について裁判を起こし、裁判は1822年に決着した[7]。
チャムリー伯爵はウェールズ公の支持者であり、パーシヴァル内閣期の1812年にウェールズ公とともに与党に転じた[6]。1812年2月19日に王室家政長官に任命され、リヴァプール伯爵内閣で続投して1821年12月10日まで務めた[4]。1815年11月22日、連合王国貴族であるチェスター州におけるロックサヴェージ伯爵およびチャムリー侯爵に叙された[1][8]。1819年にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを、1822年7月22日にガーター勲章を授与された[1][9]。
1827年4月10日にピカデリーの自宅で死去、チェシャーのマルパスに埋葬された[1]。息子ジョージ・ホレイショが爵位を継承した[1]。
家族と私生活
結婚前にグレース・ダルリンプル・エリオットと関係を持ち、エリオットが娘を出産するとその娘を引き取って育てた[10]。
- ジョージアナ・オーガスタ・フレデリカ(1782年[11] – 1813年12月10日) - 1808年9月21日、チャールズ・ベンティンク卿(第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの息子)と結婚、1女をもうけた[10]
ほかにも愛人のサンタルバン夫人(Madame Saint-Albin)との間で庶子を1人もうけた[12]。
- ハリエット(1790年ごろ – 1815年7月11日[13]) - 1812年1月11日、ジョン・ジョージ・ラムトン(のち初代ダラム伯爵)と結婚、子供あり[12]

1791年4月25日、ジョージアナ・シャーロット・バーティー(1764年8月7日 – 1838年6月23日、第3代アンカスター=ケスティーヴァン公爵ペレグリン・バーティーの娘)と結婚[1]、2男1女をもうけた[14]。
- ジョージ・ホレイショ(1792年1月16日 – 1870年5月8日) - 第2代チャムリー侯爵[1]
- シャーロット・ジョージアナ(1795年2月16日 – 1828年6月24日) - 1818年5月18日、ヒュー・ヘンリー・ジョン・シーモア(1821年12月2日没)と結婚、子供あり[14]
- ウィリアム・ヘンリー・ヒュー(1800年3月31日 – 1884年12月16日) - 第3代チャムリー侯爵[1]
祖母メアリーが初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの娘だったため[1]、チャムリー侯爵は1797年に第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポールからホートン・ホールを相続した[15]。侯爵一家はホートン・ホールに10年ほど住んだのちチェシャーの邸宅に戻った[16]。
