ジョーゼフ・セヴァーン
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ロンドン近郊のホクストン(Hoxton)で生まれた。音楽教師の家系の長男に生まれた。 弟のトーマス(Thomas Severn: 1801–1881)とチャールズ(Charles Severn:1806–1894)は音楽家になり、ジョーゼフ・セヴァーン自身もピアノの演奏を楽しんだ。14歳の時、版画家のウィリアム・ボンド(William Bond)の弟子になった。
肖像画家として働き、1815年になってロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に入学した。1816年春に詩人のジョン・キーツ(1795-1821)と知り合ったと考えられている。1819年に初めて油彩画とジョン・キーツのミニアチュール肖像画を出展した。
1819年、セヴァーンはエドマンド・スペンサーの文学作品を題材にした作品でロイヤル・アカデミーの金メダルを受賞し、アカデミーの奨学金を受けて3年間の国外留学の資格を得た。1820年9月にジョン・キーツと船でイタリアへ向かった。ジョン・キーツがローマに同行したのは、医師に勧められてより暖かいローマで結核の療養をするためであった。2人はローマのスペイン広場の近くに住み、イギリス人の友人たちの中で過ごしたが、キーツは1921年2月末に亡くなった。この時期多くの共通の友人に手紙を書き、キーツの最期の日々の記録資料となっている。
1841年までローマで画家として活動し、ミニアチュール、祭壇画や装飾画、風景画、歴史や宗教、文学を題材にした作品を描いた。イタリアの農村を描いた絵画はイタリアを訪れるイギリス人の間で人気になった[1]。ローマの英国美術アカデミー(British Academy of Arts in Rome)の設立に貢献した[2] 。このアカデミーの会員には建築家のチャールズ・イーストレイク(Charles Eastlake)や彫刻家のリチャード・ウェストマコット3世(Richard Westmacott)、画家のウィリアム・ビューウィック(William Bewick)、画家のトーマス・ユーウィンズ(Thomas Uwins)らがなった[3]。
1828年に、貴族の娘、エリザベス・モンゴメリー(Elizabeth Montgomerie: 1803-?)と結婚した。子供にはアマチュア画家で役人のウオルター・セヴァーン(Walter Severn: 1830-1904)や画家のアン・メアリー・ニュートン(Ann Mary Newton: 1832-1866)らがいる。
1841年にイングランドに戻るが国内でのセヴァーンの評価は低く肖像画家として働くが、1853年には債権者から逃れるためにジャージー島へ移ることもあった。1819年から1857年の間にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会で53点の絵画を展示した。
イタリア統一が進む中、ローマ教皇庁の支配下のローマ駐在のイギリス領事に1861年に任命された。教皇政権とイギリス政府の間の仲介にしばしば貢献し、ローマ在住のイギリス国民への助言や保護の提供に貢献し[4]、1872年まで領事を続けた。
1879年にローマで亡くなった。