ジョー・アドニス
From Wikipedia, the free encyclopedia
初期
ナポリの近くのモンテマラーノで生まれた。幼いころからスリなどの犯罪に手を染め、1915年、一家でアメリカに不法入国しブルックリンに定住した。1920年代、アドニスクラブを運営したブルックリンのギャングスター、フランキー・イェールの仲間又は部下として、ジョー・アドニスと名乗って酒の密輸を行っていた。イェールの部下だったアンソニー・カルファノとも付き合いがあった[1][2]。
イェールはマンハッタンのシチリア系マフィアのジョー・マッセリアの傘下に入っていたが、1928年7月に暗殺された。カルファノがその縄張りを継ぐ一方、アドニスはキャロルストリートに開店したレストラン(Joe's Italian Kitchen)を政界人脈の拠点にして政界フィクサーとして動いた。レストランには地元政治家や警察幹部が多数集まった[3]。レストランを隠れ蓑に賭博や密輸などを行い、稼いだ金で煙草自販機ビジネスや中古車販売を始めた[4]。酒や麻薬の密輸を通じ、ラッキー・ルチアーノやフランク・コステロ、ヴィト・ジェノヴェーゼらと知り合った[1]。
ルチアーノ一家幹部
マッセリアは、1930年初めよりサルヴァトーレ・マランツァーノと抗争していたが、1931年4月15日、コニーアイランドで部下の裏切りにより暗殺された。アドニスの関与は不明だが、カルファノがマッセリア殺害に加担し、警察の取り調べを受けた為、カルファノ繋がりでアドニスも関わったと一部では信じられている。その後マランツァーノが暗殺されるまでの半年間、アドニスのレストランがマランツァーノの襲撃ターゲットになっていた[1][2]。
マッセリアの後釜ボスになったルチアーノのマフィアファミリー(現ジェノヴェーゼ一家)に属し、幹部としてカルファノと共にブルックリンの縄張りを管轄した。またマーダー・インクの創設に関わり、その幹部となった。1936年ルチアーノが売春の罪で収監された後、間もなく代理ボスになったコステロの下で他のギャンググループへの外交窓口になった。またブルックリンの政界フィクサーとしての地位を固めた[5]。1946年、コステロが正式に一家を継いだ後も地位を保った。
カジノ事業は、1933年にルチアーノ、マイヤー・ランスキー、コステロらと共にサラトガ・スプリングズで本格的なカジノ経営に参入した(パイピングロックなど)のを皮切りに、フロリダ州、ルイジアナ州、カリフォルニア州などにカジノの拠点を広げた。コステロやランスキーと共にマイアミのカジノ、コロニアル・インの共同オーナーに名を連ねた[1]。
ニュージャージー
1930年代後半、トーマス・デューイのギャング狩りのターゲットになった。1937年のニューヨーク市長選で現職市長のフィオレロ・ラガーディアを見捨て反対勢力を支援したことでラガーディアの恨みを買った。両者の攻勢が激しくなったためニュージャージーに拠点を移した[2][6][注釈 1]。
ニュージャージーでは、裏社会とコネクションのあったフォードモーター社役員のハリー・ベネットを通じて自動車利権に食い込んだ。同社のエッジウォーター工場の新車配送サービスを独占する契約を結び、9つの州に代理店を作った。フォード社との関係は1937年頃に遡るとされた(キーフォーヴァー委員会レポート)。アメリカ北東部一帯のカーディーラーのネットワークに影響力があり、車の販売に偽の「保険」を付加して収益を増やした。ベネットは、ピエトロ・リカヴォリなど地元デトロイトマフィアとも配送利権で繋がっていたが、リカヴォリと賃上げで揉めてトラブルになった時、アドニスが間に入って仲裁したとされる[8]。後年キーフォーヴァー委員会でアドニスがフォード配送サービス会社の隠れオーナーであることが露見すると、フォード社は遺憾表明して関係解消しようとしたが、アドニスは先に保有株を売却して事業から手を引いた[9][10][11][12][注釈 2]。
1944年、フォート・リーの高級住宅街に豪邸を建て、ビジネスの拠点も完全にニュージャージーに移した[5][10][12]。ウィリー・モレッティらと賭博利権を分かち合い、モレッティを通じて地元の政治家、警察幹部や検察官と人脈を築いた。ニュージャージーの風紀取締りはニューヨークに比べて緩やかで、地下賭博で恩恵を受けた[5]。ニューヨークの富豪、とりわけ浪費家のスポーツマンらを、ハドソン川を越えてニュージャージーのカジノまでリムジンで送迎するシャトルサービスを行っていた[14]。また1940年代後半には、当時まだ新興ビジネスだったテレビ機器メーカーに投資した。
1940年に誘拐や強請で告発された時、数多くの合法ビジネスと非合法ビジネスを持ち、年収は50万ドルを超えると報じられた[15]。
1940年代半ばにニューヨーク市長になったウィリアム・オドワイアーやその側近ジェームス・J・モランと親交があり、一緒にいるところをたびたび目撃された[5]。1920年代ブルックリンの警官だったオドワイヤーを判事、検事に担ぎ上げるなどその政治家キャリアをバックアップしたのがアドニスとされる。1941年、政府密告者エイブ・レルズに、「アメリカで最も力のあるギャングの一人」と名指しされたが、摘発は免れた。レルズをはじめ多くのユダヤ系イタリア系犯罪者を監獄送りにした1940年代前半のブルックリン地区検事ウィリアム・オドワイアーは、「アメリカで最も力のあるギャングの一人」のアドニスを取り調べすらしなかった[16]。
裁判と収監
1940年代末にニュージャージーで風紀粛正の嵐が吹き荒れ、アドニスに逆風となった。1950年12月12日、上院の特別犯罪捜査委員会のキーフォーヴァー委員会にモレッティらと共に賭博組織の親玉の1人として召喚されたが、アメリカ憲法修正第5条を盾に証言を拒否した[17]。1951年1月23日、ニュージャージー司法当局に賭博容疑でサルヴァトーレ・モレッティ(ソリー・ムーア、ウィリーの弟)らと共に起訴された[18]。同年5月28日、州賭博条例違反で有罪となり2-5年の不定期刑を宣告された[12][注釈 3]。収監されたトレントン州刑務所では模範囚人として過ごし、2年後の1953年8月9日に釈放された。
出所の余韻を味わう間もなく、すぐに議会侮辱罪で監獄に逆戻りとなり、審理差し戻しで4か月後に出所したが、今度は不法入国者として連邦移民局に追及された。畳み掛けるようにニュージャージー州と連邦当局の両方から公聴会などでの偽証で追及され、有罪処分となったが収監保留となった[19][注釈 4]。
アメリカ追放
更なる収監か国外退去かの選択を迫られたアドニスは自ら出国する道を選び、政府に承認された[注釈 5]。1956年1月、家族を残したまま多額の資金を持って出国した。出国時点で脱税でも追及されており、イタリア到着と同時に未納税金を払った[21]。
イタリアでは、ナポリの親類筋に一時滞在した後、ミラノの高層マンションに居を構え、自前のナイトクラブを持つなど悠々自適の生活を送った[22]。先に追放されていたルチアーノとは会うことを禁じられた[注釈 6]。
アドニス出国後のニューヨークの縄張りはヴィンセント・アロが引き継いだとされる。1960年代初頭、ニューヨークマフィアの有志によりアドニスのアメリカ再入国の政治工作が行われ、手続が進められたが、司法長官ロバート・ケネディに手続をキャンセルされ、実現しなかった[1]。
晩年
イタリア帰国から15年間、特に事件・事故なく暮らしていたが、1971年5月にシチリア島パレルモで起きた検察官暗殺事件を機に戦後最大と言われる大々的なマフィア狩りが行われ、同年6月、アドニスはアドリア海近くの小村(Serra Dei Conti)に追放され、警察の監視下に置かれた[23][24]。同年11月23日、警察の尋問中に肺の疾患を起こして近くの病院に担ぎ込まれ、3日後、心不全で死亡した[25]。アメリカに残っていた妻と子供4人の内2人は、夫の危篤の報を受けてイタリアに飛んだ。葬儀は近親者のみで静かに催された後、遺体のアメリカ返還を許可され、ニュージャージー州フォートリーのマドンナ墓地に葬られた[26]。
エピソード
- 部下の面倒見が良く、仲間内から尊敬の念を持ってジョー・Aと呼ばれていた。
- 身だしなみに気を遣い伊達男を気取った。ポマードヘアに入念に櫛を入れながら鏡の前にずっと立っているので、ルチアーノに呆れられたという[5]。
- ニュージャージーのロディにあったアドニスの賭場は外見はみすぼらしいガレージだが、中に入ると、ホワイトジャケットのウェイターがステーキを運んでくるきらびやかなカジノだった[27]。
- 1940年、拉致暴行容疑で追及された時、ブルックリンの裁判所にまばゆい緑色の高級スーツで登場し、場を圧倒したが、裁判中は肩肘を突いてだるそうにすわっていた[28]。
- ウィリー・モレッティの娘の1人の名付け親(ゴッドファーザー)になった[10]。
- 1962年1月、ルチアーノが死んだ時、花束を贈った。花束には「So Long, Pal」(友よ、永遠に)とあった[29]。
- イタリアではニューヨークの生活を恋しがり、よくコパコバーナ(マンハッタンのナイトクラブ)の名前を口にしたという(付き合いのあったイタリア人画家の回想)。
