ジークフリード・エドストレーム
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ヴェストラ・イェータランド県
モーランダ
| ジークフリード・エドストレーム | |
|---|---|
| Johannes Sigfrid Edström | |
ジークフリード・エドストレーム(1959年) | |
| 任期 1946–1952 | |
| 前任者 | アンリ・ド・バイエ=ラトゥール |
| 後任者 | アベリー・ブランデージ |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1870年11月21日 ヴェストラ・イェータランド県 モーランダ |
| 死没 | 1964年3月18日(93歳没) |
| 国籍 | |
| 配偶者 | ルース・ランドール・エドストレーム |
| 出身校 | |
| 専業 | 電気技師、工業経営者 |
ユハネス・ジークフリード・エドストレーム(Johannes Sigfrid Edström, 1870年11月21日 - 1964年3月18日)は、スウェーデンの工業経営者。当時のスポーツ界の要人であり、国際オリンピック委員会(IOC)の第4代会長を務めた。
出生と学歴
エドストレームは1870年11月21日、ブーヒュースレーン地方ウールスト島のモーランダ教区にあるモローサンドの小さな村Edshult[1]で、船長をしていた父オロフ・マーティン・エドストレームと母エヴァ・シャルロッタ・エドストレームの間に生まれた[2]。
一家はのちにヨーテボリに転居し、エドストレームは5年制のマイヨナ中等学校に通った。さらに16歳でチャルマース工科大学の予科に入学して良好な成績を修め[2]、そのまま本科に進学して1891年に電気工学科を卒業した[3]。彼に電気工学を教えた物理学者アウグスト・ヴィーカンダー(スウェーデン語: August Wijkander)の勧めもあり、エドストレームは王室奨学金を得てチューリッヒ工科大学(ETHZ)へ留学した。この時期に彼はスポーツに興味を持つようになり、陸上競技とローイング競技に取り組んだ[4]。彼は150メートル短距離走において当時のスウェーデン[4]およびスカンディナヴィア記録となる16.4秒を記録している[5]。
アメリカでの生活
1893年にETHZを卒業したエドストレームは、同期生の伝手をたどってアメリカに渡り、ウェスティングハウス・エレクトリックの職を得た[6]。彼の仕事ぶりは創業者ジョージ・ウェスティングハウスの目に留まり、直属のプロジェクトである地上集電式電気鉄道の開発に関わったが、結局この計画は失敗に終わった[7]。エドストレームは1896年の夏に一時ヨーテボリの両親のもとに帰郷し、ロンドンを経由してアメリカへと戻る船上で、後に妻となるルース・ランドール(英語: Ruth Randall Edström)と出会った[8]。この夏にアメリカは深刻な経済危機に見舞われ、エドストレームは半年の再就職活動を経てゼネラル・エレクトリックに移籍した。
この頃、チューリッヒでは市内の馬車軌道を電化する計画が持ち上がっており、エドストレームはETHZ時代の講師らの推薦を得て技術者のポストを得た。責任者がオフィスから出たがらない人間であったため、エドストレームは現場の視察、契約書の作成から締結に至るまでを一任されることになった。彼は後にチャルマース工科大学での招待講演で、こうした経営面の内容をチャルマースでもETHZでも学んでいなかったことを回顧し、現場においては新規の設計より労働環境整備の方が重要であると述べている。それでも電化計画は順調に進み、1899年にはルース・ランドールと(彼女の生地である)シカゴで結婚し、ヨーテボリを経てチューリッヒへと戻った[9]。
アセア中興の祖
同様の軌道電化はヨーテボリでも計画され、市電経営会議の議長職にあったヴィーカンダーの招聘により、エドストレームは故郷に戻ることになった。ヨーテボリの市電は2年と経たずに電化された。1910年までの間にスウェーデン国内の13都市に電気軌道が導入されたが、ノーショーピング、ヘルシンボリ、マルメなど[10]いくつかの都市ではエドストレームがアドバイザーとして関与した[11]。
1903年、ストックホルム・エンスキルダ・バンケンのマルクス・ヴァレンベリSr.の要請を受け、当時経営危機にあったアセアの社長に就任した[12]。当初5年間の契約であったが、彼はアメリカ式経営を導入して短期間に会社の黒字化を達成した[13]。さらに発電・送電・空調・調理家電などの企業を次々と買収するなどアセアの規模拡張を主導し[14]、30年に渡って社長を務めた。1933年に社長を退くときには、アセアは43か国に1万人以上の従業員を有する国際コングロマリットとなっていた[15]。その後1934年から1949年までの15年は同社の取締役会長となった[16]。
スポーツへの関与
ETHZ時代のスポーツ経験は、エドストレームが壮年期においてスポーツ界の運営に関与するきっかけとなった。アセア社長就任と同時期、スウェーデンスポーツ連盟(英語: Swedish Sports Confederation)(RF)の創立に参画した[注釈 1]。
1908年ロンドンオリンピックではスウェーデン選手団の団長を務め、さらに1920年~1936年までの5回のオリンピックでもその任に就いた[4]。ストックホルムで開催された1912年のオリンピックでは、組織委員会の副委員長を務めた[17]。このオリンピック開催期間中、国際陸上競技連盟(IAAF)が設立され、エドストレームはその初代会長に推挙された。彼の任期は1946年まで続いた[17][4]。
1920年、エドストレームは郵便投票によってIOCのメンバーとなった[4]。翌年には理事会メンバーに推挙され、1931年には副会長職に就いた[4]。当時IOC会長だったバイエ=ラトゥールが1942年に死去した後、エドストレームは第二次世界大戦終結まで会長代行を務め、その後1946年に正式な手続きで新会長に選出された。彼の母国スウェーデンが中立の立場を取ったため、大戦中にも関わらず各国のIOCメンバーと連絡を保ち続け、結果的に大戦終結後間もない1948年のオリンピック開催にこぎつけた[4]。
引退と死去
1952年、エドストレームは82歳でIOC会長職[4]とIOCメンバー[17]から退いた。後任会長にはブランデージが選出された。同年にはIOC名誉会長に選出された[4]。
1964年3月18日、エドストレームはストックホルムで死去した[1]。
1986年には、ヨーテボリの路面電車博物館裏にある軌道橋がJ.ジークフリード・エドストレーム橋[18]、また1999年には接続道路がJ.ジークフリード・エドストレーム通り[19]とそれぞれ命名された[10]。