ススム・ヨコタ
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デビューは1992年。TENSHIN名義でドイツのレーベルからシングルをリリースした。翌1993年、当時のテクノの有名レーベルであったドイツのハートハウスから、ファーストアルバム『Frankfurt Tokyo Connection』をリリース。このアルバムが注目され、日本人として初めてラブパレードに出演した。
また盛り上がりを見せ始めた日本のテクノシーンにおいて、海外の有名レーベルからリリースしたアーティストとしてケン・イシイらと共に大きく注目されるようになる。フロッグマンレコーズやサブライムレコーズなど、日本のテクノレーベルが誕生するとともにリリースの中心を日本のレーベルに移していく。
1998年には、自身のレーベルであるSkintoneを設立する。英国でのリリースはLO RECORDINGSからの配給となる。これだけに留まらず、石野卓球の主催するレーベルkoplatiko(platicのサブレーベル)や日本のBEAT RECORD、英国のリーフ・レーベルからも作品を発表するなど、レーベルの枠を超えた活動をした。
自身のアルバムだけでなく日本国内のテレビゲームやテレビアニメへの楽曲の提供も行い、ハリウッド映画『バベル』でも楽曲が使用された。
1999年発表のアルバム『sakura』は『ブライアン・イーノの再来』など英メディアで絶賛を受ける。ビョークやレディオヘッドのトム・ヨーク、現代音楽家のフィリップ・グラスもヨコタのファンだった。だが、当時から体調を崩していたヨコタは海外からのオファーを断っていた。
デビュー当初は毎年アルバムを発表し、多い時は共作名義も含めて4枚も発表するなど多作家で知られた。その後は体調を崩したためかリリースが少なくなり、2012年の作品『Dreamer』を最後に発表が途絶えた。
2015年3月27日、長い病気療養の末、死去。享年54歳[2][3]。
晩年はコンスタントに楽曲をリリースする一方、クラブ・シーンや音楽業界のしがらみを嫌い、音楽関係者との接点をあまり持たなかったという[4]。
アーティスト名義
デビュー後数年は複数の名義を使い分けていた。 キャリア中期からのリリースは、ススム・ヨコタ名義が中心であった。
- Susumu Yokota
- TENSHIN
- YOKOTA - ドイツのハートハウスから作品を発表する時の名義。2009年には1997年から12年ぶりにYOKOTA名義で同レーベルから新作を発表した。
- EBI - ドイツのスペース・テディ(ラブパレードの創始者Dr.Motteの運営していたレーベル)から作品を発表した時の名義。
- YIN&YANG
- MANTARAY - Ray Castleとのユニット
- SONIC SUFI - Ray Castle、Takehiro Tokudaとのユニット
- BAMBOO DATA - Thoms Bitとのユニット
- ANIMA MUNDI
- 246
- RINGO
- PRISM - サブライムから作品を発表していたときの初期の名義。途中からSusumu Yokota名義となった。
- STEVIA
- Susumu Yokota & Rothko - 英ポストロックバンドRothkoとのユニット
- SYMBOL