ススム・ヨコタ

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出生名 横田 進
ススム・ヨコタ
出生名 横田 進
生誕 1960年4月22日
出身地 日本の旗 日本 富山県富山市
死没 2015年3月27日
ジャンル テクノ
アンビエント
職業 ミュージシャン
活動期間 1992年-2012年
レーベル skintone
公式サイト official web site
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ススム・ヨコタ(横田 進、よこた すすむ、1960年4月22日 - 2015年3月27日[1])は、日本テクノミュージシャンDJ。写真やアートデザインも手がけた。

デビューは1992年。TENSHIN名義でドイツのレーベルからシングルをリリースした。翌1993年、当時のテクノの有名レーベルであったドイツのハートハウスから、ファーストアルバム『Frankfurt Tokyo Connection』をリリース。このアルバムが注目され、日本人として初めてラブパレードに出演した。

また盛り上がりを見せ始めた日本のテクノシーンにおいて、海外の有名レーベルからリリースしたアーティストとしてケン・イシイらと共に大きく注目されるようになる。フロッグマンレコーズサブライムレコーズなど、日本のテクノレーベルが誕生するとともにリリースの中心を日本のレーベルに移していく。

1998年には、自身のレーベルであるSkintoneを設立する。英国でのリリースはLO RECORDINGSからの配給となる。これだけに留まらず、石野卓球の主催するレーベルkoplatiko(platicのサブレーベル)や日本のBEAT RECORD、英国のリーフ・レーベルからも作品を発表するなど、レーベルの枠を超えた活動をした。

自身のアルバムだけでなく日本国内のテレビゲームやテレビアニメへの楽曲の提供も行い、ハリウッド映画『バベル』でも楽曲が使用された。

1999年発表のアルバム『sakura』は『ブライアン・イーノの再来』など英メディアで絶賛を受ける。ビョークレディオヘッドトム・ヨーク、現代音楽家のフィリップ・グラスもヨコタのファンだった。だが、当時から体調を崩していたヨコタは海外からのオファーを断っていた。

デビュー当初は毎年アルバムを発表し、多い時は共作名義も含めて4枚も発表するなど多作家で知られた。その後は体調を崩したためかリリースが少なくなり、2012年の作品『Dreamer』を最後に発表が途絶えた。

2015年3月27日、長い病気療養の末、死去。享年54歳[2][3]

晩年はコンスタントに楽曲をリリースする一方、クラブ・シーンや音楽業界のしがらみを嫌い、音楽関係者との接点をあまり持たなかったという[4]

アーティスト名義

デビュー後数年は複数の名義を使い分けていた。 キャリア中期からのリリースは、ススム・ヨコタ名義が中心であった。

  • Susumu Yokota
  • TENSHIN
  • YOKOTA - ドイツのハートハウスから作品を発表する時の名義。2009年には1997年から12年ぶりにYOKOTA名義で同レーベルから新作を発表した。
  • EBI - ドイツのスペース・テディ(ラブパレードの創始者Dr.Motteの運営していたレーベル)から作品を発表した時の名義。
  • YIN&YANG
  • MANTARAY - Ray Castleとのユニット
  • SONIC SUFI - Ray Castle、Takehiro Tokudaとのユニット
  • BAMBOO DATA - Thoms Bitとのユニット
  • ANIMA MUNDI
  • 246
  • RINGO
  • PRISM - サブライムから作品を発表していたときの初期の名義。途中からSusumu Yokota名義となった。
  • STEVIA
  • Susumu Yokota & Rothko - 英ポストロックバンドRothkoとのユニット
  • SYMBOL

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク

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