ストックトン・ラッシュ
From Wikipedia, the free encyclopedia
ストックトン・ラッシュ Stockton Rush | |
|---|---|
|
2015年 | |
| 生誕 |
Richard Stockton Rush III 1962年3月31日 |
| 死没 |
2023年6月18日(61歳没) 大西洋 (タイタニック号の残骸付近) |
| 死因 | 潜水艇タイタンの爆縮 |
| 教育 | |
| 職業 |
|
| 活動期間 | 2009年-2023年 |
| 著名な実績 | オーシャンゲートの共同創業者兼CEO |
| 配偶者 |
ウェンディ・ウェイル(結婚 1986年) |
| 子供 | 2人 |
| 親戚 | ラルフ・K・デイヴィス (祖父) |
| 補足 | |
|
| |
リチャード・ストックトン・ラッシュ3世(Richard Stockton Rush III, 1962年3月31日 - 2023年6月18日)は、アメリカ合衆国の実業家であり、深海探査会社オーシャンゲートの共同創業者兼CEOであった。
プリンストン大学卒業後、ラッシュはマクドネル・ダグラスでF-15プログラムの飛行試験技師として働いた。その後、ブルービュー・テクノロジーズと航空博物館で役員を務めた[1]。2009年、彼はギレルモ・ソーンラインと共にオーシャンゲートを創業した。
2023年6月18日、オーシャンゲートの潜水艇タイタンが深海に沈むタイタニック号の残骸を観光しようとした際に爆縮事故を起こし、ラッシュは他の4人の乗客と共に死亡した。2025年8月4日付けのアメリカ沿岸警備隊の報告書では、ラッシュが死に寄与した「過失」が示されており、刑事責任を問われる可能性があったと明記されている[2]。
リチャード・ストックトン・ラッシュ3世は1962年3月31日にカリフォルニア州サンフランシスコで裕福な家庭に生まれた[3][4]。父はリチャード・ストックトン・ラッシュ・ジュニア(Richard Stockton Rush Jr.)、母はエレン(Ellen, 旧姓: デイヴィス《Davies》)であり、5人きょうだいの末っ子である[5]。母はサンフランシスコ、父はフィラデルフィア生まれである。母方の祖父は実業家のラルフ・K・デイヴィス[6]、祖母はサンフランシスコのデービス・シンフォニーホールの由来となった慈善家のルイーズ・デイヴィス(Louise Davies)である[7]。また父方の祖先は、アメリカ独立宣言署名者のリチャード・ストックトンとベンジャミン・ラッシュである[8]。
サンフランシスコにあった彼の幼少時代の家は、1967年に起こったユーゴスラビア領事館への爆破攻撃に巻き込まれた[9][10]。爆発は領事館と彼の家の間の通路で真夜中に起こり、領事館と彼の姉のキャサリンの寝室両方の壁に穴が空いた[11]。
幼少期の彼は宇宙飛行士を志し、人類で初めて火星に降り立つことを夢見ていた[12]。その一方で航空と水生生物にも興味を抱いていた。彼は12歳でスクーバダイビングを始め、18歳で事業用操縦士となった[13][14]。その後彼は視力の問題により軍用操縦士には不適格と告げられた[14]。1980年、彼はニューハンプシャー州エクセターのフィリップス・エクセター・アカデミーを卒業した[7]。
ラッシュは1984年にプリンストン大学で航空宇宙工学を専攻してBSE、1989年にカリフォルニア大学バークレー校でMBAを取得した[3][15][16]。
キャリア
プリンストン大学卒業後、ラッシュはMBA取得前にマクドネル・ダグラスでF-15プログラムの飛行試験技師として短期間働いた[16]。その後、ラッシュはサンフランシスコの企業であるペレグリン・パートナーズでベンチャー・キャピタリストとして働いた[17]。1989年、ワシントン州カークランドを拠点に置くリモート・コントロール・テクノロジーズの経営のために太平洋岸北西部に移った[18]。彼はその年の後半に実験用飛行機を開発し、生涯にわたってそれを飛ばしたと主張した[19]。
ラッシュは趣味でスクーバダイビングをしており、ピュージェット湾の海域でダイビングをしていた。2006年、ブリティッシュコロンビア州で初めて潜水艦で探検した後にラッシュはより深い水深での海洋探検に興味を持つようになった[13]。ラッシュは潜水艇の購入を検討し始めたが、世界中で個人所有の潜水艦は100隻以下であることがわかり、断念した。代わりにロンドンの会社が、退役したアメリカ海軍の潜水艦司令官が作成したとされる設計図を使って組み立てられる小型潜水艇の部品の販売を持ちかけた。ラッシュが建造した船は全長4メートル(13フィート)で、水深10メートル(33フィート)まで潜ることができた[14]。小型潜水艇の建造後も彼は潜水艇の購入を試み続け、2007年には亡くなったスティーヴ・フォセットの潜水艇の購入に挑んだが失敗した[12]。
2007年頃にラッシュは自分の潜水艦会社を設立するアイデアを模索し始めた[12]。彼は水中海洋観光には大きな市場があり、スクーバダイビングに必要な膨大な時間と技術的な装備の代替え手段になると考えていた[14]。ラッシュは2009年にビジネスパートナーのギレルモ・ソーンラインと共にオーシャンゲートを創業した。ラッシュによると、この会社の目標は商業観光を利用し、資源採掘や災害軽減といったさらなる商業事業を可能にする深海探査艇の開発資金を調達することであった[20]。ソーンラインは2013年にオーシャンゲートを去った[21][22]。
オーシャンゲートのために市場調査をしたラッシュは、潜水艦や潜水艇の運航に対する規制強化と、危険性に対する世間の認識の高まりにより、水中探査の民間市場が低迷しているのだと判断した。彼は、これらの理由は「理解できるが非論理的」であり、危険認識が実際のリスクをはるかに上回っていると考えた。特にラッシュは、海洋観光船の建造を規制し、水深150フィート(46メートル)をこえる潜水を禁止した連邦法である1993年旅客船安全法(Passenger Vessel Safety Act of 1993)に批判的であり、「商業的なイノベーションよりも旅客の安全を不必要に優先させた法律」と評した[14]。
2016年、沈没したアンドレア・ドーリア号をサイクロプス1号で調査していたデヴィッド・ロックリッジは、ラッシュが沈没船の残骸に「真っ逆さまに激突」した有様を報告した。この顛末は2024年の沿岸警備隊の公聴会で語られた[23]。
2018年、ラッシュは研究者や科学者と共にサンフアン諸島で探検を行い、アカウニとイアナゴの生息地を観察した[24]。2021年、度重なる延期を経て、ラッシュは深海潜水事業を開始した[25]。2023年6月の潜水に先立ち、ラッシュはフロリダ州のカップルから、2018年に予定されていたタイタニック号観光が何度もキャンセルされ、延期されたとして21万ドルの訴訟を起こされた。カップルはラッシュの行いにより、返金を受けられなかったと主張した[26][27]。ラッシュの死後にこのカップルはタイタン号で亡くなった人々を悼み、訴訟を取り下げた[28][29]。
2022年にCBS記者のデヴィッド・ポーグとのポッドキャストで、ラッシュはリスクと安全性のバランスに関する自身の見解を次のように語っている:
ご存じの通り、ある時点で安全など全く無駄になるのだ。つまり、安全を重視したいなら、ベッドから出ない、車に乗らない、何もするべきでないのだ。いずれにしてもリスクを冒すわけであって、それは本当にリスクとリターンのバランスの問題なのだ。私は、ルールを破っても、同じように安全に実行できると考えている[30]。
タイタン号事故と死
ラッシュは、オーシャンゲートが所有・設計した潜水艇タイタンに乗ってタイタニック号の残骸の観光に向かったが、2023年6月18日に水上艦ポーラ・プリンスとの連絡が途絶えた[31]。捜索救助活動には、アメリカ、カナダ、フランスからの水上および航空支援が投入された[32]。
6月22日、タイタニック号の船首から約490メートル(1,600フィート)の沖合でタイタン号の残骸が発見され[33]、オーシャンゲートはラッシュと他4人の乗客が死亡したとみられると発表した[34]。その後、アメリカ沿岸警備隊の記者会見で、潜水艇内の全員は爆縮により即死したとみられると発表された[33]。
私生活
ラッシュは1986年に操縦士兼教師のウェンディ・ウェイル(Wendy Weil)と結婚し、2子をもうけた[35][36]。ラッシュとウェイルは共に通っていたプリンストン大学で出会った[37]。ウェイルはタイタニック号沈没事故で亡くなったイジドーとアイダ・ストラウスの曽曽孫である[35][38]。彼女はオーシャンゲートの広報部長を務めていた[35]。
ラッシュは18歳で事業用操縦士となり、1981年に19歳で世界最年少のジェット輸送機操縦資格の取得者になったと主張していた[39][40]。1989年にグラスエアーIII実験機を組み立て、生涯にわたって所有して飛ばし続けた[39][40]。ラッシュはまた12歳でダイビングを始め、生涯にわたってスクーバダイビング愛好家であった[37]。