1884年5月5日、鉄道に興味を持つ実業家であったロス・ピンセントとアリス・ピンセントの息子として、ウルグアイの首都モンテビデオで生まれる[1]。イギリスで建築を学ぶ。
1901年から1906年まで、イギリスやフランスで教会や住宅の地形図を描いていた時期があり、1906年にはイタリアでも同様の地形図を描いていたようだ。友人で建築史家のジェフリー・スコットとともにイタリアのトスカーナ州を旅し、アメリカ人美術史家のバーナード・ベレンソンおよび妻で同じく美術史家のメアリー・ベレンソンと出会う。ベレンソンはスコットを司書として雇い、ピンセントはヴィラ・イ・タッティ(英語版)でベレンソンの仕事を手伝った。ベレンソンを介する形で、ピンセントはトスカーナ州の英語圏コミュニティから引き寄せられた裕福な顧客と接触することができたのである。顧客の中にはチャールズ・アレクサンダー・ローザ、哲学者のチャールズ・アウグストゥス・ストロング(英語版)、イギリス王エドワード7世の愛妄であるアリス・ケッペル夫人、アメリカ人外交官ウィリアム・バイヤール・カッティング・ジュニア(英語版)の妻であるレディ・シビル・カッティングや彼女の娘である歴史家のアイリス・オリゴ(英語版)などがいた[2]。
1907年、ピンセントは鑑定家のチャールズ・アレクサンダー・ローザのヴィラ・トッリ・ガッタイアを改修したのを皮切りに、ベレンソンのヴィラ・イ・タッティ(1909年-1914年)、ストロングのヴィラ・ル・バルゼ(英語版)(1911年-1913年)、オリゴのラ・フォーゼ(1939年)とヴィラ・カッポーニの庭園を立て続けに設計し、庭園にバロック様式の衝立を創作した。
1944年から1945年までイタリアに短期間滞在したのを除いて、1939年から1950年代後半までイギリスで暮らした。
イタリアに滞在中、第二次世界大戦中に損害を受けたヴィラと庭園の修復を行った[3]。
1950年代後半にはスイスに居を構えた。
1963年12月5日、ピンセントはスイスのヒルターフィンゲン(英語版)で没した[4]。
ピンセントの線描の一部はロンドンの王立イギリス建築研究所図書館が保有している。