セラヴ条約

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1618年にオスマン・クリミア連合軍とサファヴィー朝軍の間で起きたセラヴの戦い。クリミア・ハン国のハーン、ジャニベク・ギレイ英語版は、オスマン軍司令官、ダマト・ハリル・パシャ英語版の指揮下で戦闘に参加している。[1]

セラヴ条約(セラヴじょうやく、ペルシア語:عهدنامه سراب、トルコ語:Serav Antlaşması)は、オスマン・サファヴィー戦争英語版後にオスマン帝国サファヴィー朝ペルシアとの間で結ばれた条約。1618年9月26日にセラブ英語版で署名された。

1612年のナスフ・パシャ条約英語版で、オスマン帝国はコーカサスと北西イランをサファヴィー朝に返還することに同意した。一方でサファヴィー朝は、賠償金の一環として毎年200荷分のを貢納することとなった[2]。しかし、シャーアッバース1世が貢納を拒否すると、1615年に再び戦争が始まった。

戦闘

オスマン帝国の大宰相オクズ・カラ・メフメト・パシャ英語版は、ナスフ・パシャ条約で放棄したばかりのエレバン(現在のアルメニア)の攻略を試みたが、思うようにいかず44日で包囲を解除した。後を継いだダマト・ハリル・パシャ英語版アルダビールに狙いを定めると、今度はアッバース1世が和平を求めた。

条約

条約の内容は前回のナスフ・パシャ条約とほとんど同じであったが、国境線に関する細かい内容が追加された[3]。また、サファヴィー朝が貢納する絹が200荷から100荷に減らされた[4]

その後

この条約以降、オスマン帝国とサファヴィー朝は膠着状態が続き、両国間における大きな領土の変遷は起こらなかった。その後の数十年の間で、オスマン帝国がタブリーズを占領したり、逆にサファヴィー朝がバグダッドを占領するなどしたが、これらは一時的なものであり、両国の勢力均衡は20世紀まで続いた。

関連項目

脚注

参考文献

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