セルフリッジ (駆逐艦・2代)

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セルフリッジ
セルフリッジ(1930年代後半)
セルフリッジ(1930年代後半)
基本情報
建造所 アメリカ合衆国の旗ニューヨーク造船所[1]
運用者  アメリカ海軍
艦種 駆逐艦
級名 ポーター級
艦歴
起工 1933年12月18日[1]
進水 1936年4月18日[1]
就役 1936年11月25日[1]
退役 1945年10月15日[2]
最期 1946年11月19日 売却[1]
1947年10月 解体[2]
要目(建造時)
基準排水量 1,834 英トン / 1,863 仏トン[1]
満載排水量 2,597 英トン / 2,597 仏トン[1]
全長 116.15 m (381 ft 1 in)[1]
11.28 m (37 ft 0 in)[1]
吃水 3.96 m (13 ft 0 in)(平均)[1]
主缶 パブコック&ウィルコック式重油専焼缶×4基[1][3]
主機 パーソンズ式オールギアードタービン[1][3]
出力 50,000 shp[1]
推進 スクリュープロペラ×2軸[1]
最大速力 37ノット (69 km/h)[1]
燃料 645 仏トン[1]
航続距離 6,500海里[1]
乗員 194名[1]
兵装
FCS Mk 35方位盤×2基[1][3]
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セルフリッジ(USS Selfridge、DD-357)は、アメリカ海軍駆逐艦[1]ポーター級駆逐艦の2番艦[1][注釈 1]。艦名はトーマス・O・セルフリッジ英語版少将とその息子トーマス・O・セルフリッジ・ジュニア英語版少将に因み、その名を冠する艦としては2代目に当たる[2][注釈 2]

セルフリッジ(1945年4月)

1936年の就役時点での主武装は、対水上用に12.7センチ口径のMk 22連装砲4基(8門)と533ミリ4連装魚雷発射管2基(次発装填装置付き)、対空用に28ミリ4連装機関砲2基というものだった[1][3]。しかし、Mk 22は軽量だが最大仰角35度の平射用砲架であり、まもなくヨーロッパでの戦訓から対空兵装の充実が求められるようになる[1][3]。ただ、当時のアメリカ海軍駆逐艦に共通する問題として本級も著しいトップヘビー設計であり、改装は容易ではなかった[1][3]

1941年には後部甲板室のカットダウンや後部主檣および予備魚雷の撤去などと引き換えに、対空用の20ミリ機関砲、レーダー、爆雷装備が追加された[1][3]

1943年には後部の20ミリおよび28ミリ機関砲を40ミリ連装機関砲2基に換装、さらに1944年ごろに3番主砲を40ミリ4連装機関砲に換装している[1]

1944年末からは更なる改修が行われ、1、4番主砲をMk 38連装両用砲に換装、3番主砲跡にあった40ミリ4連装機関砲はMk 30単装両用砲に変更され、かわりに2番主砲を撤去してそこに据え付けられた[1]。なお、これらの変更による重量増に対処するため、艦橋は背の低いイギリス艦スタイルとなり、煙突も短縮されたものの、結局トップヘビーは解決できなかった[1][3]

艦歴

1933年12月18日にニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で起工され、ダンカン・I・セルフリッジ夫人の後援を受けて1936年4月18日に進水、1936年11月25日に就役した[2]。初代艦長はH・D・クラーク中佐[2]

1937年1月から2月にかけて地中海で慣熟航海を行い、3月に本国へ帰還[2]。整備ののちフィラデルフィアを拠点に訓練演習を実施した[2]。9月と11月に東海岸で大統領警護任務に従事[2]。12月初旬に太平洋側に移り、第4駆逐戦隊(Des-Ron 4)の旗艦として着任、以後約2年間はサンディエゴを中心に活動する[2]。1940年に真珠湾に配属替えとなり、1941年12月の真珠湾攻撃まで同地で活動した[2]

太平洋戦争

真珠湾攻撃時は護衛任務を終えて帰港したばかりであり、攻撃後5分以内で対空戦闘を開始している[2]。午後には自艦以外の様々な艦艇の乗員を寄せ集めて出港し、オアフ島周辺の哨戒を行っている[2]。12月後半まで哨戒任務に従事したのち、空母「サラトガ」の護衛艦としてウェーク島への救援作戦に参加するが、作戦は中止に終わった[2]。引き続きサラトガの護衛として活動していたが、1942年1月にサラトガが雷撃を受けたため、共に真珠湾に帰港[2]。以後、演習や哨戒、護衛、輸送などの任務に従事[2]。1月30日には商船護衛中に潜水艦に爆雷攻撃を行い、おそらく損傷を与えたと報告している[2]

1942年5月にオーストラリアへ移動し、第44任務部隊の一員として沿岸防衛に従事[2]。その後僚艦と共にフィジーへ向かい、ガダルカナル島ツラギ島への上陸・占領を企図したウォッチタワー作戦の予行を行う[2]。8月7日のウォッチタワー作戦本番では、輸送船グループの護衛艦として参加[2]。6時20分にツラギ港へガソリンを輸送していた艀に砲撃を行い撃沈[2][5]。昼頃に日本軍機の爆撃を受けるが大きな損害はなく、日本軍の航空機搭乗員2名を救助している[2]。9日には第一次ソロモン海戦(米側呼称はBattle of Savo Island)の生存者の救助活動に従事し、大破したオーストラリア海軍重巡洋艦「キャンベラ」を僚艦「エレット英語版」とともに撃沈処分した[2][6]。8月いっぱいは空母の護衛にあたった後、9月からは日本軍のポートモレスビー上陸阻止や連合軍艦船の護衛のため、約9か月間にわたり珊瑚海で活動[2]

大破した「セルフリッジ」(左)

1943年5月に第3艦隊に配置替えとなり、9月下旬には第3艦隊の両用戦部隊の一員として揚陸艦の護衛に従事[2]。その後は夜間哨戒に従事[2]。10月6日夜に発生した第二次ベララベラ海戦(米側呼称はBattle of Vella Lavella)では、駆逐艦3隻からなるウォーカー隊の旗艦(フランク・R・ウォーカー大佐指揮。第4駆逐戦隊の一部)として日本海軍の水上部隊と交戦したが、駆逐艦「時雨」および「五月雨」から発射された魚雷のうち1本を受けて艦首を大破、戦死者13名、負傷者11名、行方不明者36名を出した[2][7][8]。仮修理の後アメリカ本土に帰還し、カリフォルニア州のメア・アイランド海軍造船所で新しい艦首部の取り付けを含む大規模修理を受けた[2]

修理完了後は再訓練を行い、1944年5月に真珠湾に移動[2]。その後ギルバート諸島クェゼリンマリアナと転戦し、護衛や対地砲撃、連絡、哨戒任務などに従事した[1][2]。8月に大西洋への配置転換命令を受け、9月にパナマ運河を通過。ニューヨークで短い整備を受けたのち、第65任務部隊の一員としてアメリカ東海岸と北アフリカのチュニジア間で船団護衛に従事、1945年6月まで続けた[2]

8月まで整備と訓練を行っていたが、トップヘビー傾向が忌避されたこともあって、第二次世界大戦終結後まもない1945年10月15日に退役し、1946年11月19日に売却、1947年10月に解体された[1][2][3]

脚注

参考文献

関連項目

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