ジャニス・イアンはニュージャージ州ファーミングデールに生まれ、長じてのちアフリカ系アメリカ人が人口の大半を占める同州イーストオレンジに移住した。入学したイーストオレンジ高校でイアンは数少ない白人の生徒の一人だった。経験をもとにして14歳の時に曲を一曲書き上げた。イアンはインタビューで次のように述べている[3] 。
書き始めたとき、自分がどこに向かっているかおそらくわかってなかったと思う。でも2行目の「顔はきれいで、夜のように黒く輝いている」というフレーズがひらめいたとき、行先は明らかになった。そのとき私はイーストオレンジに住んでいた。14か、13歳のとき。まわりは全員黒人で、学校にいた白人の生徒は5人くらい。私は「それ」を両端から見ていた。白人の親たちが娘が黒人とデートしていると言って怒り猛っていることをテレビやラジオを通じて知り、またそこから
公民権運動についての多くの物事を知った。一方で、黒人の親たちが娘や息子が白人の子とデートするんじゃないかとやきもきしている様子を普段から目の当たりしていた。曲に出てくるあの少女は結局最後には目をそむけ逃げてしまうのだけれど、私に確たる決意があってそうしたわけじゃないの。ただ、あのときの私の年齢ではそれが不可避であるように思えた。いったいどうして学校や社会や両親ぜんぶを敵に回すことができて? 自ら進んで永遠ののけ者になることを誰が望むのか。
1965年、ソングライター兼プロデューサーのシャドウ・モートンはイアンに賭け、本作品をレコードとして世に出すことを決めた。その際にモートンはタイトルを「Baby, I've Been Thinking」から「Society's Child」に変更した。イアンによれば、レコーディングはアトランティック・レコードで行われた。6人のスタジオ・ミュージシャンが集められ、費用もすべて同社が出した。しかし結局アトランティックからリリースすることはかなわず、幾多のレーベルが断り続け、月日が過ぎていった[3]。
引き受けたのはMGMが設立したばかりのサブ・レーベル、ヴァーヴ・フォークウェイズだった。1966年10月、シングルとして発売。B面にもイアンの自作曲「Letter To Jon」が収められた。
いくつかの都市で限定的にヒットしたが、ビルボードのチャートに入ることはなかった。ヴァーヴはさらにイアンのアルバムの制作した。本作品も収録されたファースト・アルバム『Janis Ian』は1967年1月に発売された。
ある日のこと、レナード・バーンスタインの音楽プロデューサーがグリニッジ・ヴィレッジの「ガスライト」で「ソサエティーズ・チャイルド」を演奏するイアンを見た。プロデューサーはバーンスタインがホストを務める特別番組『Inside Pop: The Rock Revolution』への出演をイアンにオファーした。番組は1967年4月25日、CBSで放送。イアンは流れるレコードの音に合わせて、弾き語りのパフォーマンスをした。その後、バーンスタインは物議を醸す曲の主題に言及しつつ、ピアノで曲を弾き、歌い、音楽性の高さを絶賛した。
「ソサエティーズ・チャイルド」は、私たちがこれまで語ってきた音楽的な喜びを十二分に含んでいる。もちろん話さなかったものもある。たとえば、あのハープシコードの奇妙な使い方。最高にクールなエレクトリックオルガンの音。自然であると同時にエレクトロニックである魅惑的なサウンド。おどろくべき転調があり、テンポさえも変わる。あいまいなカデンツ。不均一な長さのフレーズ。なんという傑作なんだ! 事程左様に我がポップ・ジェネレーションの子どもたちには言うべきことがたくさんあるようだ。
バーンスタインがビートルズの革新性を切々と説き、ホリーズのグレアム・ナッシュとハーマンズ・ハーミッツのピーター・ヌーンが議論を戦わせ(そのそばで両バンドに曲を提供したことのあるグレアム・グールドマンが二人をあたたかく見守る)、ロジャー・マッギンやフランク・ザッパがインタビューに答え、ブライアン・ウィルソンが「Surf's Up」をピアノで弾き語りするこの特別番組は大きな話題となり[4]、その結果イアンの存在を全米に知らしめた[5]。ヴァーヴ・レコードは専門雑誌やラジオ局にプロモーションをかけるが、シカゴのWLSなどいくつかの局は番組でかけることを拒否した。「ソサエティーズ・チャイルド」は同年5月27日付でついにビルボードのHot 100にチャートイン。7月15日には14位を記録した[6]。カナダでも13位を記録した。