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ソールズベリのジョン

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ソールズベリのジョン[1][2][3](ソールズベリーのジョン[4]、英: John of Salisbury、1115年/1120年 - 1180年[5])は、12世紀ルネサンス期イングランドの哲学者・聖職者。シャルトル学派に属する[6]。アリストテレスやキケロの影響のもと『ポリクラティクス(英語版)』『メタロギコン(フランス語版)』などを著した。

ソールズベリのジョンの講義の図(16世紀の装飾写本)

ソールズベリのヨハネス[7](ヨアンネス[6]、羅: Joannes Saresberiensis)、小ヨハネス(羅: Joannes Parvus)とも呼ばれる[5]。

生涯

1115年から1120年のあいだ頃、イングランドのソールズベリ郊外にあるオールド・セラム(英語版)に生まれる[8]。聖堂参事会(英語版)に関わる家の出身と推定される[8][6]。

1136年から、パリに遊学し、アベラルドゥス、ロベルトゥス・プルス(英語版)、ムランのロベルトゥス(英語版)、コンシュのギヨーム(英語版)、シャルトルのティエリ(英語版)、ギルベルトゥス・ポレタヌス(英語版)らの講義を聴く[8]。

1147年ごろ帰国し、クレルヴォーのベルナルドゥスからカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)(ベックのテオバルド)への推薦状により、カンタベリー大司教座に奉職[9]。テオバルドの秘書を務める[10]。1150年代、大司教の代理として何度か教皇庁に滞在する[9]。

1150年代後半、何らかの理由で英王ヘンリー2世の不興をこうむり、大司教座から一時離職し、著述に専念する[9]。1159年、『ポリクラティクス』と『メタロギコン』を完成させる[9]。

1160年代、ヘンリー2世とカンタベリー大司教トマス・ベケットが聖職者裁判権などをめぐり対立すると、友人セルのペトルス(英語版)が院長を務めるランスのサン=レミ修道院に身を寄せ、書簡などでベケットの擁護活動をする[9]。

1176年、シャルトル司教に就任[11]。1180年、逝去[11]。

思想・著作

『ポリクラティクス』写本

信仰と学問を調和させるシャルトル学派の理念を継承している[12]。当時参照可能だった古典を豊富に引用しており[11]、特にキケロに傾倒していた[13][5][6][14]。ローマ法や、イスラーム圏経由のアリストテレス論理学(新論理学(英語版))にも通じていた[12]。

「巨人の肩の上」

慣用句「巨人の肩の上に乗る」は、『メタロギコン』3巻4章にシャルトルのベルナルドゥスの言葉として見え、「アリストテレスなどの古典の恩恵を受けている」という意味合いで使われている[18]。

脚注

参考文献

外部リンク

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