トマス・ベケット
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
ノルマン人富裕層の両親の子としてロンドンに生まれた。1142年ごろ、カンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックの元に仕え、留学の後1154年に助祭長となる。[3]
また、イングランド王ヘンリー2世に大法官として仕えた。1162年、カンタベリー大司教に叙階された後は教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、さらには他の司教の支持も失い1164年、フランスへ亡命した[3]。亡命先のポンティニー修道院は、当時追放された他のイングランドの高位聖職者達がトマス・ベケットをはじめ、多数滞在した[4] 。
ヘンリー2世との和解は1170年に成ったものの、帰国早々またしても問題が発生した。ヘンリー2世の息がかかった司教に対し、ベケットが懲戒を行ったものである。ヘンリー2世は当時ノルマンディーに滞在していたがこれに激怒し、その意を汲んだ4人の騎士がカンタベリーに向け渡海、12月29日の夕刻、ベケットはカンタベリー大聖堂において暗殺された。目撃者の証言によると最後の言葉は「喜んで私は、イエスの名のために、また教会を守るために死ぬ」であったと伝えられている[3]。
死後
1173年、ローマ教皇アレクサンデル3世はベケットを列聖し、以後多くの巡礼者がカンタベリー大聖堂に訪れることになった[3]。翌1174年7月12日、ヘンリー2世はベケットの墓の前で懺悔を行った。ローマ教会に屈服を余儀なくされたこともあり、この事件はヘンリー2世の命運を暗転させる契機となった。
ベケットは、書物、剣、シュロの枝、模型聖堂などを持つ司教として表される。1880年、コンラート・フェルディナント・マイヤーが『聖者』でベケットの生涯を描いた。1884年、詩人のアルフレッド・テニスンが『ベケット』を書き、T・S・エリオットの詩劇『寺院の殺人(1935年)』[5]やジャン・アヌイの戯曲とそれを原作とする1964年の映画『ベケット』がある[3]。
死後、遺骨はどのような経緯か不明だがハンガリーに渡った。2016年、その遺骨が800年ぶりに英国に里帰りし、1週間に渡って英国を巡った[6]。
