タラール (芸人)

From Wikipedia, the free encyclopedia

別名Tarar
生誕1772年
フランスのリヨン近郊
死没1798年(25-26歳没)
フランスのイヴリーヌ県ヴェルサイユ
所属組織フランス第一共和政
タラール
医師のPierre-François Percyの、タラールの病歴についての1804年の原著論文 、Mémoire sur la polyphagie
別名Tarar
生誕1772年
フランスのリヨン近郊
死没1798年(25-26歳没)
フランスのイヴリーヌ県ヴェルサイユ
所属組織フランス第一共和政
部門フランス革命軍
軍歴1792年–1794年
戦争第一次対仏大同盟に関する戦い

タラール (Tarrare(時にTararと綴られる)、日本語では「タッラール」とも表記される、仏語での発音は [taʁaʁ]、 1772年–1798年)は、その異常な食欲と食生活が記録されているフランスの芸人、兵士、スパイである。膨大な量の肉を食べることができ、常に空腹だった。両親は彼を養う事ができず、10代の時に家を追い出された。旅回りの香具師の前座の芸人になる前は売春と窃盗を行う集団の仲間としてフランスを旅していた。その芸において、彼はコルク、石、生きた動物、一つの籠いっぱいのリンゴを飲み込んだ。その後彼はこの芸をパリに持ち込み、大道芸人として働いた。

第一次対仏大同盟に関する戦いが始まった時、タラールはフランス革命軍に参加したが、そこでは標準の軍用レーションの4倍の量でさえ彼の強い食欲を満足させることはできなかった。彼は側溝や掃き溜めから得られるあらゆる食べ物を食べたが飢餓により体調は悪化し続け、衰弱により入院した。彼はその食事の能力を試す一連の医学的な実験の対象となった。その中で、例えば、一食で15人分目安の食事を平らげ、生きた猫、蛇、蜥蜴、仔犬を食べ、ウナギ1匹を一切噛まずに飲み込んだ。異常な食事にも関わらず彼は低体重であり、食生活を除けば、記述された無気力な気質以上の精神疾患の兆候は見られなかった。

アレクサンドル・ド・ボアルネ将軍は、タラールの能力を軍事利用することを決め、フランス軍の配達人として雇用した。彼に書類を飲み込ませ、敵陣を通りぬけさせ、目的地で安全になったら彼の便から書類を復元できるだろうという意図があったためである。彼は最初の任務においてプロイセン陸軍に捕らえられ、フランスの陣地に帰還するまでに厳しく痛めつけられ、模擬処刑の対象となった。

この経験に懲りた彼は、食欲を治せるかもしれないあらゆる処置を受け入れることに同意した。それらの処置は失敗に終わり、医師たちは彼に管理された食事を続けさせることができなかった。彼は病院から脱走し、側溝や掃き溜め、肉屋の店先で内臓を漁り、病院では他の患者が瀉血している間にその血を飲もうとし、遺体安置所の死体を食べようとした。1歳児を食べた疑いをかけられた後、彼は病院から追い出された。4年後、重度の結核を患ってヴェルサイユに再び現れ、すぐに、長引いた滲出性下痢を経て死亡した。

タラールはリヨン近郊に、1772年ごろ生まれた[1]。 彼が生まれた日の記録は残っておらず、「タラール」が彼の本名なのかニックネームなのかも不明である。

幼少期のタラールは旺盛な食欲を持ち、10代までには、タラール自身の体重と同じくらいの、雄牛の4分の1を1日で食べられるようになった。このころには両親は彼を養う事ができず、彼に家を出るように迫った。家を出てから旅回りの香具師の前座として雇われるまでの数年間は、盗賊や娼婦たちの一団と国を流浪し、窃盗や物乞いで食いつないだ。彼はコルク、石、生きた動物、1つの籠いっぱいのリンゴを飲み込むことで客を集めた。彼はむさぼるように食べ、特に蛇の肉を好んだ。

1788年、タラールはパリに移り大道芸人として働き始めた。おおむね成功を収めていたようだが、しかしあるとき、芸に失敗して深刻な腸閉塞を患った。観客たちが彼をオテル・デューに連れていき、そこで強力な下剤により治療された。彼は完全に回復し、外科医の時計と鎖を食べることで芸を披露したいと申し出たが、外科医のM. Giuradは感心せず、もしそうしたならばそれらを取り戻すために体を切り開くと警告した。

見た目と行動

その異常な食生活にも関わらず、タラールは痩せており、身長は平均的だった。17歳の時の体重はわずか100ポンド(45kg)だった。異常に柔らかい金髪と、異常に広い口(口を最大まで開いた時の顎の間隔は約4インチ)を持ち、口において歯はひどく変色し、唇はほぼ見えなかったと記述されている。何も食べていないときに皮膚がとてもたるんでいたので、腹部の皮膚のひだを伸ばして腰を覆うことができた。満腹時には腹部が「巨大な風船のように」膨らんだ。頬の皮膚は皺だらけでたるんでおり、口を大きく開けると12個の卵やリンゴを収めることができた。

体は触れると熱く、大量に汗をかいていた。常に悪臭を放ち、「20歩以内の距離に近づくのが耐えられないほど」臭いと評された。食後にその臭いは顕著に悪化し、目と頬は充血し、体からは目に見える蒸気が立ち上った。そして無気力状態となり、その間、うるさいげっぷを繰り返し、顎は飲み込む動作を繰り返した。慢性的な下痢を患っており、その便は「想像を絶する悪臭」を放つと言われていた。大量の食物摂取にもかかわらず、彼は過度に嘔吐することも太ることもなかった。食習慣を除けば、同時代人は彼に精神疾患や異常行動の明らかな兆候を見出さなかった——ただし「活力と思考の完全な欠如」を伴う無気力な気質は例外として。

タラールの体質の原因は不明である。類似した行動を示す同時代の他の記録例はあるが、彼以外の対象は解剖されておらず、現代においてタラールに類似した記録例は存在しない。甲状腺機能亢進症は、異常な食欲増進、急激な体重減少、多汗症、耐熱性の低下、毛髪が細くなることを引き起こしうる。Jan Bondesonはタラールが扁桃体を損傷していたと推測している。動物において扁桃体の損傷が過食を引き起こすことは知られている。

兵役

第一次対仏大同盟に関する戦争が勃発したとき、タラールはフランス革命軍に志願した。しかし軍用レーションは彼の食欲を満たすには不十分だった。彼は他の兵士たちの分の任務を行い、その見返りに彼らの食糧を分けてもらい、糞尿の山から残飯を漁ったが、それでも満足できなかった。彼は極度の疲労でSoultz-sous-Forêtsの軍病院に入院した。4倍のレーションが認められたが空腹は収まらず、側溝やごみ箱から生ごみを漁り、他の患者の残飯を食べ、薬品庫に忍び込んで湿布薬を食べた。軍医たちは彼の食欲を理解できず、彼はCourville(第9軽騎兵連隊軍医)[2]と病院の主任軍医Pierre-François Percyが考案した生理学的実験に参加するため、軍病院に留まるよう命じられた。

「犬と猫たちは彼の視界から逃げ出した——まるで彼が自分たちに用意しているある種の運命を予想したかのように」
Percy

CourvilleとPercyはタラールの食事における容量を試すことにした。病院の門付近の15人の労働者用に食事が用意されていた。通常、病院スタッフはタラールを食物を前では拘束していたが、この時はCourvilleが彼に食卓まで近づくことを妨げず許した。タラールは大きな肉パイを2枚、複数枚の脂と塩の皿、牛乳4ガロンという食事をまるごと平らげると、すぐに眠りに落ちた。Courvilleはタラールの腹が大きな風船のように張り詰めて膨らんだと記録している。別の実験では、タラールに生きた猫が差し出された。彼は即座に歯で猫の腹部を裂き、血を飲み干し、骨を除いて猫全体を食べ尽くし、最後に毛と皮の残骸を吐き出した。その後、病院スタッフは蛇、蜥蜴、仔犬など様々な動物を提供したが、すべて完食した。最初に歯で頭部を砕いただけのウナギを丸呑みすることもあった。

軍の配達人としての仕事

数か月間の実験対象としての期間を経て、軍当局はタラールの現場への復帰を強く求めるようになった。Courvilleはタラールの食習慣と消化器系に関する研究を継続することに意欲的であり、アレクサンドル・ド・ボアルネ将軍に、タラールの特異な能力と体質は軍事利用できるかもしれないと提案した。木箱の中に文書を収め、それをタラールに食べさせた。2日後にその箱を排泄物の中から回収すると、文書は判読可能な状態だった。それゆえCourvilleは、ボアルネに対し、タラールを、たとえ身体を検査されても文書が発見されるリスクがない、敵地を抜けて安全に文書を運ぶ配達人として活用できると提案した。

タラールはボアルネから、ライン軍の司令官たちの集まりの前でその能力を披露するよう命じられた。箱を無事に飲み込んだ彼には報酬として、生の牛の肺と肝臓30ポンド(約14kg)を積んだ手押し車が与えられ、彼は集まった将軍たちの前で即座にそれを平らげた。

この実演の成功の後、タラールはライン軍のスパイとして正式に採用された。ボアルネはタラールが文章を伝達するための身体能力を有していると納得していたものの、精神状態を懸念しており、最初から重要な軍事文書を託すことに消極的だった。タラールは最初の任務として、ノイシュタット近郊でプロイセン陸軍に捕らえられたフランスの大佐に伝書を送ることを命じられた。タラールには文書が軍事的に重要な意義を持つものであると伝えられたが、実際にボアルネが大佐に書いたのは、文書が成功裡に届いたかを確認し、届いた場合プロイセン軍の動向についての何らかの有用な情報を返信するよう依頼するメモに過ぎなかった。

タラールはドイツ人農民を装い、夜に紛れてプロイセン軍の陣地を通過した。ドイツ語が話せなかったため、すぐに地元住民に怪しまれてプロイセン当局に通報され、ランダウ郊外で捕らえられた。身体検査では不審物は見つからず、プロイセン兵たちに鞭打たれても彼は任務を明かすことを拒んだ。現地のプロイセン司令官、Zoegli将軍の前に連れ出さたが、再び自白を拒み投獄された。24時間の拘束後、タラールは屈服し計画を説明した。彼は便所に鎖で繫がれ、木箱が飲み込まれてから30時間後、ついにそれが排出された。タラールが重要情報を含むと言っていた文書が、ボアルネによるダミーに過ぎなかったと判明すると、Zoegliは激怒した。タラールは絞首台に連行され、首に縄をかけられた(一部の出典によれば、Zoegliは箱を回収できなかったという——タラールが挽回するための冷静さを保ち、プロイセン軍に回収される前に箱が入った便を回収して食べたためである) 。土壇場でZoegliの気が変わり、タラールは絞首台から降ろされ、激しく殴打された後、フランスの陣地近くで解放された。

試みられた治療

この事件のあと、タラールはそれ以上の軍務を避けることに必死になり、病院に戻ってPercyに食欲を治すためのあらゆる可能な治療を試みると伝えた。Percyはアヘンチンキで治療したが成功せず、ワインビネガーやタバコの錠剤によるそれ以上の治療も同様に失敗に終わった。これらの失敗を受けて、Percyはタラールに大量の半熟卵を与えたが、これもまた彼の食欲を抑えることに失敗した。何らかの管理された食生活を維持させる試みは全て失敗に終わった。彼は病院を脱走し、肉屋の店先で内臓を漁り、路地や側溝、ゴミ捨て場で野良犬と腐った肉を奪い合った。また、病院内で患者が瀉血しているときに血を飲んで何度か捕まり、死体安置所で遺体を食べようとした。ほかの医師たちは彼が精神病であると確信し、精神病院への移送を強く求めたが、Percyは実験を継続することに熱心で、タラールは軍病院に留まった。

しばらくして、生後14か月の幼児が病院から姿を消し、タラールは小動物を食べた過去があったため、その幼児を食べたのではないかと即座に疑われた。Percyに彼を擁護することができなかったため、あるいはPercyが彼を擁護する気がなかったため、病院職員はタラールを病院から追い出し、彼は二度と戻らなかった。

4年後の1798年、ヴェルサイユ病院のM. TessierがPercyに連絡を取り、病院のある患者が会いたがっていると伝えた。その患者はタラールで、その時には寝たきりで衰弱していた。彼はPercyに、2年前に金のフォークを飲み込んだと伝えた。タラールはそれが今も体内に留まって現在の衰弱の原因になっていると信じており、Percyがそれを取り除く何らかの方法を見つけてくれることを願っていた。しかしPercyは、タラールが進行した結核を患っていると認めた。1か月後、タラールは止まない滲出性下痢に見舞われ始め、間もなく死亡した。

死体は急速に腐敗し、病院の外科医たちは解剖を拒否した。しかしTessierは、タラールのが常人のそれとどのように異なっているのかを知りたがり、また、金のフォークが体内にあるのかにも興味があった。解剖の結果、タラールの食道は異常に広いことが分かった。また、顎を開いたときに外科医たちはに続く広い管を見た。体内には膿が充満し、肝臓胆嚢は異常に大きく、胃は巨大で潰瘍に覆われ、腹腔の大部分を占めていた。フォークは発見されなかった。

脚注

参考文献

関連文献

Related Articles

Wikiwand AI