タンガニーカ落花生計画

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タンガニーカ落花生計画(Tanganyika groundnut scheme)は、1940年代後半に立てられた英領タンガニーカ(en)南部の広大な農園で落花生を生産するという食糧増産計画である。英国労働党クレメント・アトリー政権下で推進されたこの計画は、一度も黒字化することなく有権者に負担をかけすぎるとの理由で1951年に放棄された。この地域の土質や降水量が落花生の栽培にまったく適していなかったことによるこの計画の膨大なコストとその失敗は、植民地時代後期のアフリカにおける政府の失敗の象徴として広く知られることとなった[1][2][3]

ピーナッツオイル。ピーナッツは世界の主要な油糧作物のひとつである。

1946年ユニリーバの子会社である連合アフリカ会社の社長であるフランク・サミュエルは、当時イギリスの保護領であったタンガニーカで大量の植物油を生産するために、落花生を大規模に栽培するアイデアを考え付いた。当時のイギリスは第二次世界大戦後の経済的苦境から抜け出せておらず、食用油は配給制となっていた。彼はこの計画を実現するため、英国政府にコンタクトをとった[4]

1946年4月に、労働党政府はこの計画の適地を選定する調査団の派遣を承認した。このチームは、タンガニーカの元農業管理官であるジョン・ウェイクフィールドによって率いられていた。3ヶ月間の調査の後でこのチームが提出した報告書は、計画の実現に非常に楽観的な見通しを立てていた。ウェイクフィールドは、タンガニーカが不毛に見えるのは地元の原始的な農法に原因があり、ヨーロッパの進んだ農法と機械力さえあれば簡単にこの点は改善されると信じきっていた。政府は食糧大臣のジョン・ストレイチーのもとで、6年間で低木地帯15万エーカー(607km2)を耕地化するための予算2500万ポンドを計上した。これを受けてこの計画に従事するための「グラウンドナッツ・アーミー」とよばれる志願者の募集がはじまり、10万人の志願者が集まった。最初の栽培地に選定された中央タンガニーカのコングワでは、すでに地元民たちがピーナッツを栽培していた。ストレイチーは古くからの政治的な同志であるレスリー・プラマーを海外食糧公社の会長に選んだ。

実施と失敗

脚注

関連項目

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