Wikiwand AI

ダッチ・サベージ

From Wikipedia, the free encyclopedia

リングネーム ダッチ・サベージ
ダッチ・シュルツ
ミスター・X
ロニー・ブラウン
本名 フランク・スチュワート
ニックネーム フライング・ダッチマン
黒い殺人鬼
身長 193cm
ダッチ・サベージ
プロフィール
リングネーム ダッチ・サベージ
ダッチ・シュルツ
ミスター・X
ロニー・ブラウン
本名 フランク・スチュワート
ニックネーム フライング・ダッチマン
黒い殺人鬼
身長 193cm
体重 120kg -124kg
誕生日 (1935-06-09) 1935年6月9日
死亡日 (2013-08-03) 2013年8月3日(78歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州の旗 ペンシルベニア州
ラッカワナ郡スクラントン
スポーツ歴 アメリカンフットボール
トレーナー ルーク・ブラウン
デビュー 1962年
引退 1981年
テンプレートを表示

ダッチ・サベージ(Dutch Savage、本名:Frank Stewart、1935年6月9日 - 2013年8月3日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州スクラントン出身。

1960年代から1980年代初頭にかけて、オレゴンやワシントンおよびカナダのバンクーバーなど太平洋岸北西部を主戦場に活躍した[1]。

学生時代はアメリカンフットボールで鳴らし、卒業後はプロのフットボール・リーグに所属していたが[2]、膝を故障してプロレスに転向[3]。ハイスクールの友人でもあったザ・ケンタッキアンズのルーク・ブラウンのトレーニングを受け、1962年にジョージア州メイコンにてデビュー[3]。

当時はルークにあやかり、ロニー・ブラウン(Lonnie Brown)と名乗っていた[3]。以降、ミスター・X(Mr. X)やダッチ・シュルツ(Dutch Schultz)などとリングネームを変更した後、カンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区にてダッチ・サベージ(Dutch Savage)と改名[3]。黒いロングタイツに口髭の大型ヒールとして活動した。

1966年はテキサス州西部のアマリロ地区で活動、1月12日にリッキー・ロメロからアマリロ版のNWA北米ヘビー級王座を奪取している[4]。タッグではドン・ジャーディンと組んでドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクと抗争、総帥のドリー・ファンク・シニアをはじめ、ワフー・マクダニエルやジャック・ブリスコ、ダン・ミラー、ヘイスタック・カルホーンとも対戦した[5]。1968年はAWAに参戦、クラッシャー・リソワスキー、イゴール・ボディック、マッドドッグ・バション、ドクターX、ビル・ワット、ラリー・ヘニング、ハーリー・レイス、ブラックジャック・ランザ、ロック・ロゴウスキー、レッド・バスチェンらと対戦している[6]。

1960年代後半より、オレゴン州ポートランドやワシントン州シアトルを拠点とするパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)および同団体と提携関係にあったカナダ・バンクーバーのNWAオールスター・レスリング(ASW)に進出[3]。以降、両エリアを主戦場とし、ASWではジン・キニスキーやドン・レオ・ジョナサン、ロッキー・ジョンソンらと抗争。1970年代に入るとベビーフェイスに転向し、PNWでは1970年12月から1977年8月にかけて、ムーンドッグ・メイン、ブル・ラモス、ジェシー・ベンチュラ、ロン・バスなどを破り、フラッグシップ・タイトルのNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を通算7回獲得[7]。タッグではジミー・スヌーカとのコンビで活躍した[8]。1970年代末からは、当時売り出し中だったアドリアン・アドニスやロディ・パイパー、リック・マーテルとも共闘、キラー・ブルックス、ザ・シープハーダーズ、バディ・ローズ、エド・ウィスコスキーなどと抗争を展開している[9]。

日本へは1967年5月、日本プロレスに初参戦[10]。1970年4月の再来日ではドン・レオ・ジョナサン、クリス・マルコフ、ターザン・タイラー、ネルソン・ロイヤル、ポール・ジョーンズ、ザ・コンビクト、パンピロ・フィルポらと共に『第12回ワールドリーグ戦』に出場[11]。ジャイアント馬場には敗退するも、アントニオ猪木と引き分け、坂口征二からは反則勝ちを収めるなどダークホースぶりを発揮して、外国人陣営ではジョナサンに次ぐマルコフと同点の2位の戦績を収めた[11]。1971年の来日時はイワン・コロフと組み、7月1日に大阪府立体育館にてBI砲のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している[12]。1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに、ブルーノ・サンマルチノ、フレッド・ブラッシー、テリー・ファンクらと共に参戦[13]。以後、1974年2月と1975年2月にも全日本プロレスに登場し、日本プロレス時代を含め通算6回来日した[2]。

1981年の引退後は不動産業に携わりつつ、ノースウエスト地区のプロレス中継のカラー・コメンテーターも担当していた[1]。晩年は牧師に転身し、教役者となって活動していた[3]。

2013年4月に脳卒中に見舞われ、左半身が麻痺した状態となって闘病生活を送った[14][15]。同年8月3日、ワシントン州の病院で死去[16]。78歳没。

得意技

獲得タイトル

脚注

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks