ダンブレーン小学校銃乱射事件
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| ダンブレーン小学校銃乱射事件 | |
|---|---|
| 場所 |
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| 座標 | 北緯56度11分22秒 西経3度58分27秒 / 北緯56.18944度 西経3.97417度座標: 北緯56度11分22秒 西経3度58分27秒 / 北緯56.18944度 西経3.97417度 |
| 日付 | 1996年 3月13日 |
| 標的 | ダンブレーン小学校の生徒と職員 |
| 武器 | 拳銃4丁 |
| 犯人 | トーマス・ハミルトン |
| 動機 | 不明 |
ダンブレーン小学校銃乱射事件(ダンブレーンしょうがっこうじゅうらんしゃじけん)は、スコットランドのスターリング近郊ダンブレーンにあるダンブレーン小学校で1996年3月13日に発生した銃乱射事件[1]。
トーマス・ハミルトンが生徒16人と教師1人を殺害し、15人の負傷者を出した後、自殺した。この事件は、イギリス史上最悪の銃乱射事件として記録されている。
事件の流れ
1996年3月13日午前8時15分ごろ、トーマス・ハミルトンが、スターリングのケントロードにある自宅の外でバンの氷を削っているところが目撃された[2]。ハミルトンはその後すぐに、北に8キロメートル離れたタンブレーンにバンで向かった。午前9時30分ごろ、ダンブレーン小学校の敷地内に到着し、小学校の駐車場にある電信柱の近くにバンを停めた。そして、近隣の住宅に通じる電信柱の根元で電話線を切断した後、小学校の駐車場を通って小学校の建物へと向かった[2]。
ハミルトンは小学校の北西側から建物内に入った後[注 1]、体育館に向かった。事件前から合法的に所持していた拳銃4丁を携行していた[3] 。所持していたのは、FN ブローニング・ハイパワー2丁(セミオートマチック・ピストル)とS&W M192丁(回転式拳銃)であった[2]。また、9mm弾501発と357マグナム弾242発の計743発の弾薬を携行していた[1]。体育館に入る前に、ハミルトンは集会ホールの舞台と女子トイレに向けて2発の銃弾を発砲した[2]。このとき体育館では、小学1年生28人が3人の教員のとともに、体育の授業の準備をしているところであった。ハミルトンは体育館に入った後、次々と無差別に銃撃を開始した。体育教師のアイリーン・ハリルド[注 2]は数人の負傷した子供たちとともに体育館脇にあったオープンプランの物置[注 3]に入った。小学校1年生の教師のグウェン・メイヤーは銃撃され即死した。授業補助をしていた教師のメアリー・ブレイクも頭と両足を銃撃されたが、数人の子供たちを連れて物置までたどり着いた[2]。ハミルトンは体育館に数歩入ったところで、すでに拳銃1丁で29発の銃弾を発砲し、子供1人を殺害、数人を負傷させた。負傷した4人の子供は、ハリルド(体育教師)とブレイク(TA)と共に物置に避難した。ハミルトンはその後、体育館の東側を歩きながら6発の銃弾を発砲し、体育館の反対側に向けて8発の銃弾を発砲した。さらに体育館の中央に向かい、銃撃を受け動けなくなった子供たちに向けて至近距離から16発の銃弾を発砲した[2]。このとき、体育館の外壁の西側を歩いていた小学7年生の生徒[注 4]が、大きな音と叫び声を聞いて体育館の中を覗いた。ハミルトンはさらに生徒に向けて24発の銃弾を発砲し、生徒は飛び散ったガラスで負傷したもののその場から逃げた。運動場を歩いていた大人を狙撃するため、体育館の南東端にある非常口の隣の窓に向けて発砲した。非常口のドアを開けた後、同じ方向にさらに4発の銃弾を発砲した。その後、ハミルトンは非常口から体育館を出て、図書館のクロークルームに向けて4発の銃弾を発砲し、小学校職員のグレース・トゥウェドルを負傷させた[2]。ハミルトンが立っていた非常口に最も近い移動教室で、キャサリン・ゴードンは彼が銃を発砲しているのを目撃し、小学校7年生の生徒たちに床に伏せるよう指示した。ハミルトンは移動教室に向けて9発の銃弾を発砲し、本や備品に当たった。そのうちの1発は数秒前まで生徒が座っていた椅子を貫通していた。その後、ハミルトンは体育館に戻り、持っていた拳銃を投げ捨て、もう一つの拳銃に取り換えた。ハミルトンは銃口を口にくわえ、上に向けて引き金を引いて自殺した。最終的にハミルトンは3 - 4分の間に、グウェン・メイヤー(小学校1年生の教師)と生徒15人を含む計32人を銃撃し、そのうち16人が体育館で致命傷を負った。また、1人の生徒が病院への搬送中に死亡した[2]。
校長のロナルド・テイラーは副校長のアグネス・オールソンから、小学校内に銃を持った男がいると報告を受けた[注 5]。オールソンは体育館の中で叫び声が聞こえ、地面に薬莢らしきものを見つけていた。テイラーが体育館へ向かう途中に銃撃は止み、何が起こったのかを目の当たりにした。テイラーは午前9時41分に警察への通報を行った[4]。救急車の要請は午前9時43分に副校長のフィオナ・イーディントンによって行われた[5]。午前9時57分に救急車が現場に到着した。また、ダンブレーン保健センターの医療チームが午前10時4分に到着し、医師と看護師が負傷者の救命処置に当たった。ドゥーンとカランダーの保健センターの医療チームもすぐに到着した。スターリング王立病院の救急外来にも午前9時48分に複数の負傷者が出ていると報告があり、医療チームが午前10時15分に到着した。フォルカーク・アンド・ディストリクト王立病院の医療チームは午前10時35分に到着した[5]。午前11時10分ごろまでに、全ての負傷者のスターリング王立病院への搬送が完了した[4]。その後、一部の負傷者は検査後にフォルカークの地区王立病院やグラスゴーの王立小児病院に移送された[6]。
ハミルトンは計106発の銃弾を発砲した。そのうち105発はFN ブローニング・ハイパワーから、残りの1発はS&W M19からであった[7][注 6]。
被害者
| 英語表記 | カタカナ表記 | 事件当時の年齢 | 関係性 |
|---|---|---|---|
| Victoria Elizabeth Clydesdale | ヴィクトリア・エリザベス・クライズデール | 5歳 | 生徒 |
| Emma Elizabeth Crozier | エマ・エリザベス・クロージャー | ||
| Melissa Helen Currie | メリッサ・ヘレン・カリー | ||
| Charlotte Louise Dunn | シャーロット・ルイーズ・ダン | ||
| Kevin Allan Hasell | ケヴィン・アラン・ハゼル | ||
| Ross William Irvine | ロス・ウィリアム・アーヴィン | ||
| David Charles Kerr | デイヴィッド・チャールズ・カー | ||
| Mhairi Isabel MacBeath | ヴァリ・イザベル・マクベス | ||
| Gwen Mayor | グウェン・メイヤー | 45歳 | 教員 |
| Brett McKinnon | ブレット・マキノン | 6歳 | 生徒 |
| Abigail Joanne McLennan | アビゲイル・ジョアン・マクレナン | 5歳 | |
| Emily Morton | エミリー・モートン | ||
| Sophie Jane Lockwood North | ソフィー・ジェーン・ロックウッド・ノース | ||
| John Petrie | ジョン・ペトリー | ||
| Joanna Caroline Ross | ジョアンナ・キャロライン・ロス | ||
| Hannah Louise Scott | ハンナ・ルイーズ・スコット | ||
| Megan Turner | メーガン・ターナー | ||
| Thomas Hamilton | トーマス・ハミルトン | 43歳 | 犯人 |
犯人
生い立ち
トーマス・ワット・ハミルトン(英語: Thomas Watt Hamilton、以下ハミルトン)は、1952年5月10日にグラスゴーで、バス運転手のトーマス・ワット・シニアとホテルの客室係のアグネス・グラハム・ハミルトンの息子として、トーマス・ワット・ジュニア(英語: Thomas Watt Jr.)として生まれた。ハミルトンが生後18か月のとき、父親が別の女性と不倫したことで両親が離婚し、ハミルトンはそれ以降父親と連絡を取っていなかった。トーマス・ワット・シニアの母方の祖父母のジェームズとキャサリン・ハミルトンは、ハミルトンを養子として育て、名前をトーマス・ワット・ハミルトンに変更した。ハミルトンが幼い頃、家族はスターリングに引っ越した。ハミルトンは、母方の祖父母が本当の両親で、母親が姉だと信じ込まされていた。ハミルトンの祖父母は、ハミルトンが22歳くらいのとき真実を打ち明け、それがハミルトンに永続的な心理的影響を与えたと言われている。
ハミルトンは青少年クラブで働き始めた。複数の青少年クラブの責任者を務めていたハミルトンは、少年に対する不適切な行為について警察に何度か苦情が寄せられており、その中には、親の同意を得ずに半裸の少年の写真を撮影したという訴えも含まれていた[8][9]。ハミルトンは短い間、スカウトの指導者を務めた。1973年7月、21歳でスカウト協会の第4/6スターリング隊の副指導者に任命された。また、同年、彼は再建中だった第24スターリングシャー隊の指導者の代行に抜擢された。しかし、ハミルトンの指導について、いくつかの苦情が寄せられた[注 7]。1974年5月13日、郡コミッショナーは「少年に対する彼の道徳的意図に疑念を抱いている」としえ、ハミルトンのスカウト指導資格を取り消した。ハミルトンはスカウト協会によってブラックリストに載せられ、後にクラックマナンシャーのスカウトリーダーになろうとしたが阻止された[10]。
葬儀
事件発生から6日後の1996年3月19日、ハミルトンの遺体は火葬された。警察の広報担当者によると、この葬儀はダンブレーンから遠く離れた場所で行われたという[11]。