チェダブクトの戦い
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北緯45度23分11.8秒 西経61度30分20.1秒 / 北緯45.386611度 西経61.505583度座標: 北緯45度23分11.8秒 西経61度30分20.1秒 / 北緯45.386611度 西経61.505583度
| チェダブクトの戦い | |||||||
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| ウィリアム王戦争中 | |||||||
マサチューセッツ湾直轄植民地総督、サー・ウィリアム・フィップス | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
| マサチューセッツ湾植民地 | フランス領アカディア | ||||||
| 指揮官 | |||||||
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ウィリアム・フィップス シプリアン・サウザック | ドーファン・ド・モントルグイユ | ||||||
| 戦力 | |||||||
| 兵士88 | 兵士12 | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 不明 | 不明 | ||||||
チェダブクトの戦い(チェダブクトのたたかい、英 Battle of Chedabucto)は、チェダブクト(現在のノバスコシア州ガイスボロ)で、ウィリアム王戦争中の1690年6月3日に起きた戦闘である[1]。
この戦闘は、サー・ウィリアム・フィップスによるニューイングランドの、アカディアへの軍事作戦の一環であった。ニューイングランド軍の規模は圧倒的で、首都のポートロワイヤル、そしてチェダブクトを制圧し、他の集落にも攻撃を仕掛けた。この戦闘の余波は、それ以前のアカディア侵攻の時のものとは異なっていた。激しい攻撃により、多くのアカディア人がニューイングランド人に敵意を持つようになり、信頼関係を損ね、イングランド系住民との友好関係が困難になってしまった[2]。

1682年、クレルボー・ベルジエは、他の商人たちを連れて、フランスのラ・ロシェルを発ち1682年、アカディア・カンパニー(コンパニ・ド・ラ・ペシュ・セダンテール)を創設し[3]、漁業保護のためにサンルイ砦を造った[4]。主な港はチェダブクト湾に集中しており、1686年には50人もの漁師がいた。サンルイ砦の指揮官はドーファン・ド・モントルグイユだった[5]。
ニューイングランドのアカディア攻撃の裏には、様々な意図があった。ある者は、攻撃後のミクマク族やアカディア人との利益をめぐって、その土台を築いておこうとしており、またある者は、この戦いの前に行われたポートロワイヤルの戦いの際、イングランド軍が悪だくみをしたと主張するアカディア人を、こらしめるつもりだった[6]。
ポートロワイヤルが攻略されたのち、部隊長のシプリアン・サウザックはケープ・サーブル(ポール・ラ・トゥール)に赴いた、そこは彼が、インディアンと同盟したフランス軍と戦った場所であった。また、サンルイ砦を征服した場であるチェダブクト、フランスの交易所を襲ったニューファンドランドにも足を運んだ[7]。
戦闘
その後のアカディア

降伏により、総督と兵士たちは船でケベックに追われた。降伏前に約束されていた
これらの約束事にもかかわらず、ニューイングランド軍は、降伏の後、12日間に及ぶ略奪行為を行った。彼らは砦から大砲を外して、他の砦らしきものにかまわず狙いを付けた(このため矢来が真っ二つになった)。この略奪がすべて終わった後、フィップスは農民に、国王ウィリアム3世と女王メアリー2世に忠誠を誓わせようとしたが、農民たちは難色を示した。そこでフィップスは、教会や、行政や軍事の権力者を、ボストンに連れ帰ることで、彼らの権限を取り除いてしまおうとした。権力者とは、2人の聖職者プチとトルーヴェ、総督のメネヴァル、そして58人の兵である。ポートロワイヤルを発つ前に、フィップスは、臨時政府を作って、アカディアの指導者による議会を作ろうともした[11]。
翌年、アカディアの新総督であるエドワード・ティングは、ポートロワイヤルに向かっていたところを、フランスのフリゲート「ソレイユ・ダフリカ」に拿捕された。この船には、フランス人の新総督であるロビノー・ド・ヴィユボンが乗っていた。ティングと共にいたジョン・アルデンは、捕虜交換の知らせを持ってボストンに送り返され、ヴィユボンは、前年に捕囚されていた60人ばかりの兵を解放した[12]。
カンパニー・オブ・アカディアは、様々な難題を抱え、1702年に解散した[13]。また、サンルイ砦は1718年のカンゾ襲撃(スクウィラル・アフェア)で崩壊した[14]。