チャールズ・バレンタイン・ライリー

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チャールズ・バレンタイン・ライリー
チャールズ・バレンタイン・ライリー
生誕 1843年9月19日
イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没 (1895-09-14) 1895年9月14日(51歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 昆虫学
プロジェクト:人物伝
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チャールズ・バレンタイン・ライリー(Charles Valentine Riley、1843年9月19日 - 1895年9月14日)は、アメリカ合衆国昆虫学者天敵防除などに大きな足跡を残した。

イギリスで生まれ、17歳の時にアメリカに渡り、B・D・ウォルシュと知り合って昆虫学の道に進んだ。その後ミズーリ州の州雇い昆虫学者としてロッキートビバッタ対策などを指導した。1877年にはアメリカ合衆国農務省の連邦昆虫学委員会の委員となり、さまざまな害虫対策を行った。特にイセリヤカイガラムシに対して行った天敵の導入による防除は大成功を収め、害虫対策の新たな方法として注目された。業務以外でもさまざまな昆虫の研究を行った。

経歴

  • 1843年 - ロンドンのチェルシーに生まれる。その後フランスドイツで学んだ。美術博物学に優れていた由。
  • 1860年 - アメリカに渡り、イリノイ州農場で働く。その後シカゴに移り、プレイリー・ファーマ紙の通信記者となる。ここで昆虫学者のB・D・ウォルシュと知り合う。
  • 1868年 - ウォルシュと共に雑誌『アメリカン・エントモロジスト』を発行。同年、ミズーリ州の州雇い昆虫学者に任命される。
  • 1876年 - ロッキートビバッタの蝗害について、オハマで開かれたバッタ被害緒州の知事会議に参加。主として彼の報告に基づいて対策が練られた。
  • 1877年 - 連邦昆虫学委員会が作られ、農務省の管轄下におかれた。彼は委員会の議長となった。この委員会の結成にも彼の意見が大きな役割を担ったとされる。委員会は1870年まで活動した。
  • 1878年 - 連邦農務省の昆虫学長官に就任。イセリアカイガラムシの防除などを指導。
  • 1894年 - 長官職を辞任。合衆国国立博物館に一室を得て研究活動を続ける。
  • 1895年 - 9月14日早朝、自転車の故障により道路に叩きつけられる事故によって死亡。

人物像

有能多才な人物であり、見かけはハンサムで、サイエンス誌に「画家か音楽家のように見え」ると書かれたことがある由。役者の心得もあったらしい。

精力的で強い意志をもち、「障害にぶつかるほどますます闘志を燃やし、一層の努力を傾け」(後任の昆虫学長官となったL.O.ハワードによる人物評)る人物であった。イセリヤカイガラムシの天敵を探しに部下をオーストラリアに派遣した際には、その予算が拒否されたため、たまたまあった万国博覧会への代表団に部下一人を強引に押し込んで実現した。しかしその成功後には当の万博代表委員のマックカッピンとその栄誉の奪い合いを演じて見せた[1]

また上司や部下の感情を気にかけないなどの傾向があったらしく、上司を無視して議会に直訴したり過大な予算要求をしたり、あるいは部下の成果を自分のものにしたなどと言ったことがあり、周囲ともめることがあった。そのため、昆虫学長官職を一時的に辞任する騒ぎになったこともあった。

業績

出典

参考文献

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