チャールズ・ビンガム (初代ルーカン伯爵)

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初代ルーカン伯爵チャールズ・ビンガム。ジョシュア・レノルズの1780年の作品に基づくメゾチント

初代ルーカン伯爵チャールズ・ビンガム英語: Charles Bingham, 1st Earl of Lucan1735年9月22日1799年3月29日)は、アイルランド王国出身の政治家、貴族。1761年から1776年までアイルランド庶民院議員を、1782年から1784年までグレートブリテン庶民院議員を務めた[1]ホイッグ党所属[2]

第5代準男爵サー・ジョン・ビンガムとアン・ヴェジー(Anne Vesey、1762年没、アマーシャム・ヴェジー英語版の娘)の次男として[3]、1735年9月22日に生まれた[1][4]。1752年に兄ジョンが死去すると、準男爵位を継承した[4]

1761年アイルランド総選挙においてメイヨー選挙区英語版カスルバー選挙区英語版で当選、前者の候補としてアイルランド庶民院議員を務めた[1]1768年アイルランド総選挙ではメイヨー選挙区で再選、以降1776年まで議員を務めた[1]。アイルランド庶民院では野党の立場にあったが、後におそらく叙爵を求めてアイルランド総督初代ハーコート伯爵サイモン・ハーコートに接近した[5]。1776年7月24日にアイルランド貴族であるメイヨー県におけるカスルバーのルーカン男爵に叙され、1778年6月20日にアイルランド貴族院議員に就任した[3]

1782年4月、娘婿にあたるオールトラップ子爵ジョージ・ジョン・スペンサー(1783年10月に爵位を継承して第2代スペンサー伯爵となる)の後援を受けて、ノーサンプトン選挙区英語版の補欠選挙[注釈 1]グレートブリテン庶民院議員に当選した[6]。議会ではホイッグ党に所属し[2]第2次ロッキンガム侯爵内閣(1782年)を支持したほか、シェルバーン伯爵内閣期(1782年 – 1783年)のアメリカ独立戦争予備講和条約に反対票を投じ、フォックス=ノース連立内閣期(1783年)にチャールズ・ジェームズ・フォックスが提出した東インド法案に賛成票を投じた[4]。続く第1次小ピット内閣(1783年 – 1801年)には野党の立場に立った[4]。しかし、ノーサンプトン選挙区の有権者はフォックス=ノース連立内閣の罷免に賛成しており、スペンサー伯爵とルーカン男爵とは逆の立場だったため、有権者たちはまずスペンサー伯爵に次の総選挙でルーカン男爵ではなくほかの候補を出すよう求めた[6]。ルーカン男爵が立候補辞退を拒否すると、有権者たちはノーサンプトン市民であるファインズ・トロットマン(Fiennes Trotman)を立候補させ、トロットマンは1784年イギリス総選挙でルーカン男爵を破って当選した[6]。ルーカン男爵の敗因は不人気のほか、資金不足や選挙活動を担う人物の不在[注釈 2]も挙げられる[6]

1795年10月1日、アイルランド貴族であるルーカン伯爵に叙された[3]

カスルバーで大きな領地を所有し、領地開発に力を入れて現地で尊敬を受けたが、1798年アイルランド反乱英語版では反乱軍がカスルバーでの邸宅に侵入して破壊した[5]メイヨー県でも議会でも好まれる人柄だったという[5]

1799年3月29日に自宅で死去[3]。息子のリチャードが爵位を継承した[3]

著作

  • An essay on the use and necessity of establishing a militia in Ireland ... by a country gentleman(1767年)[5]

家族

1760年8月25日、バースマーガレット・スミス(1814年2月27日没、グレートブリテン庶民院議員ジェームズ・スミスの娘)と結婚[3]、1男4女をもうけた[7]

注釈

出典

外部リンク

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