テオドル・アクセントヴィチ
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テオドル・アクセントヴィチ(Teodor Axentowicz、 アルメニア語: Թեոդոր Աքսենտովիչ、1859年5月13日 - 1938年8月26日)は、アルメニア人を父親に持つ画家、美術教師である。1895年から現ポーランドのクラクフで活動し、クラクフの美術学校の校長も務めた。ウクライナの民族のフツルの人々や女性の人物画を描いたことで知られている。
現ルーマニア中部のブラショヴで生まれた。父親はアルメニア貴族の出身でオーストリアの宮廷の役人を務め[1]、母親はハンガリーの名家の出身で、ローマ・カトリックの洗礼を受けた。3歳の時家族と現ウクライナのリヴィウに移った。
1878年にミュンヘン美術院に入学し、1882年までミュンヘンで修行した後[2] 、1882年から1895年までパリでカロリュス=デュランの工房で学んだ[3]。雑誌のイラストレーターとして働き、ボッティチェリといった巨匠の絵画の模写をして修行した。1890年代に入ると、ロンドンやローマに滞在し、女性やポーランド貴族の肖像画を描いた。イギリスで亡命したポーランド貴族の息子でイギリス国籍を得てイギリス陸軍省の役人となったアダム・ギェウグト(Adam Giełgud)の娘のイザ・ギェウグト(Iza Giełgud: 1875-1957)と知り合い1893年に結婚した。
1894年には、ヴォイチェフ・コサク(Wojciech Kossak)やヤン・スティカ(Jan Styka)とともにポーランドのヴロツワフに1794年にポーランド・リトアニア共和国軍がロシアに対して蜂起し勝利したラツワヴィツェの戦いを描いた15m×115mのパノラマ画『ラツワヴィツェのパノラマ』の制作に参加した。翌年、クラクフに移り、クラクフの美術学校(現ヤン・マテイコ美術アカデミー)の教授となった。1897年に女性のための絵画教室を開き、ヤン・スタニスワフスキやレオン・ヴィチュウコフスキ(Leon Wyczółkowski)とともに教えた[4] 。1897年にクラクフに創立されたポーランド芸術家協会「Sztuka」(Sztukaは芸術の意)の創立メンバーの一人となった。オーストリアの美術家協会「Hagenbund」やウィーン分離派の会員にもなった。
1910年にクラクフの美術学校の校長になった。アクセントヴィチの教えた学生にはエドヴァルト・リッツ=シミグウィやタデウシュ・リヒターがいる。
1938年にクラクフで亡くなった[5] 。