医師ヨハン・リッター・フォン・オッポルツァー(Johann Ritter von Oppolzer)の息子として当時オーストリア帝国であったプラハに生まれた。ウィーン大学で医学を学び1865年に博士号を得たが、私設の天文台を所有し、1866年から天文学と測地学を教え始め、1875年には教授に任じられた。1873年にオーストリアの測地調査を指揮し、1886年には国際測地協会の会長になった。
きわめて才能のある天文学者、数学者として知られ、14000の数に対する対数値を暗記していたと言われている。1868年に日食の観測を行なった後、1887年にCanon der Finsternisse(食宝典)を著した。これは、紀元前1208年から紀元2161年までの間に起きる8000回の日食と5200回の月食を計算し、表及び図に示したもので、当時としては画期的な天文計算の業績であった。
彗星や小惑星の軌道要素などに関する300編以上の論文を発表し、2巻の彗星や小惑星の軌道に関する手引書を著し、それらは長く標準として用いられた。月の運動の理論の改良にも務めた。
小惑星(1492) オッポルツァーは彼の功績を記念して命名された他[1]、妻の名が(237) セレスティーナ(Coelestina)に[2]、2人の娘の名が(153) ヒルダ(Hilda)と(228) アガーテ(Agathe)に与えられている[3][4]。