デア・カンプフ (オーストリアの雑誌)
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| カテゴリ | 政治雑誌 |
|---|---|
| 刊行頻度 | 月刊 |
| 発行者 | Verlag der Wiener Volksbuchhandlung |
| 創刊年 | 1907年 |
| 創刊号 | 1907年10月 |
| 最終号 | 1938年 |
| 国 |
|
| 拠点 | ウィーン → プラハ → ブルノ |
| 言語 | ドイツ語 |
| OCLC番号 | 1716851 |
『デア・カンプフ』(Der Kampf、「闘争」の意)は、1907年から1938年にかけて発行されていた政治雑誌。当初はウィーンで、後にはプラハ、さらにブルノで発行された。オーストリア社会民主労働党の理論誌とされており[1]、副題として「Sozialdemokratische Monatsschrift(社会民主主義月刊誌)」を掲げていた[2]。日本語では、『カンプ』として言及されることもある[1]。
『デア・カンプフ』は、オットー・バウアー、アドルフ・ブラウン、カール・レンナーら、オーストリア・マルクス主義の立場の人々によって、1907年10月に創刊された[3][4]。この雑誌は、カール・カウツキーが創刊していた『ディー・ノイエ・ツァイト(新時代)』に範を取っていた[4]。雑誌のおもな目的は、理論問題や、オーストリアにおける労働運動に関する諸問題について、議論の場を提供することであった[5]。『デア・カンプフ』は、近代科学と社会調査手法を支持する立場をとった[6]。
『デア・カンプフ』の編集陣には、オットー・バウアー、アドルフ・ブラウン、カール・レンナーらが加わっていた[2][7]。この雑誌は、1934年2月に発禁処分とされるまで、ゲオルク・エマリンクによってウィーンで月刊誌として発行されていた[2][7][8]。
1934年から1938年にかけて、『デア・カンプフ』は、非合法出版物として刊行され[2]、初めはプラハ、後にはブルノに拠点を置いていた[7]。