デイヴィッド・ボイル (第7代グラスゴー伯爵)
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パトリック・ボイル(Patrick Boyle、ボイル卿デイヴィッド・ボイルの息子)と妻メアリー・フランシス(Mary Frances、初代準男爵サー・ロバート・ダルリンプル=ホーン=エルフィンストンの娘)の息子として、1833年5月31日にエディンバラで生まれた[2]。
1846年にイギリス海軍に入り、クリミア戦争とアロー戦争に参戦した[2]。1857年時点では海尉であり[3]、1865年12月16日に中佐に昇進した[4]。1874年にスループ船のニオベ号がミクロン沖で難破したときに艦長を務めたことから、調査を受けたものの過ちがなかったとされる[1]。1878年9月10日、海軍からの引退とともに退役大佐として名乗ることを許可された[5]。
1890年4月23日に曽祖父の兄の孫にあたる第6代グラスゴー伯爵ジョージ・ボイルが死去すると、グラスゴー伯爵位を継承した[2]。1892年2月22日、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[6]。27日、ニュージーランド総督に任命された[7]。同年4月にイギリスを発ち、シドニー経由で6月にニュージーランド植民地に到着した[8]。
第4代オンズロー伯爵の退任に伴い、ニュージーランドのジョン・バランス内閣は次期総督が決まるまでに内閣の意見を聞くことを要望したが、この要望が無視されたため、内閣はグラスゴー伯爵の任命に抗議した[8]。また、前任者のオンズロー伯爵はニュージーランド立法評議会(ニュージーランドの上院にあたる)の議員任命をめぐりニュージーランド自由党の内閣と争っており、グラスゴー伯爵の任期においても本国の植民地省の決裁待ちという形で引き継いだ[1]。内閣との関係では海軍での経験から海岸防衛の助言をするなど友好的だったが、総督の軍総司令官としての権限をめぐり争ったこともあった[1]。
1897年2月、総督としての収入が総督としての品位を維持できない程度であるとして辞任した[1]。ヴィクトリア女王在位50年記念叙勲の一環として、1897年7月23日に連合王国貴族であるエアシャー州フェアリーにおけるフェアリー男爵に叙された[2][9]。
1915年12月13日にエアシャー州フェアリーで死去、16日に埋葬された[2]。長男パトリック・ジェームズが爵位を継承した[2]。