デニス・ラサール

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原語名 Denise LaSalle
出生名 Ora Denise Allen
別名 デニス・クレイグ、デニス・ジョーンズ
デニス・ラサール
ラサール(2009年、モンタレー・ベイ・ブルース・フェスティバルにて)
基本情報
原語名 Denise LaSalle
出生名 Ora Denise Allen
別名 デニス・クレイグ、デニス・ジョーンズ
生誕
死没
ジャンル
職業 歌手
活動期間 1967年 - 2018年
レーベル

デニス・ラサールDenise LaSalle1934年7月16日 - 2018年1月8日[1][2][3])は、アメリカ合衆国ブルースR&Bソウルの歌手、ソングライター、音楽プロデューサーである。出生名はオラ・デニス・アレン。夫はラッパーのスーパー・ウルフである。

ラサールの最もよく知られた楽曲には「Trapped By A Thing Called Love」、「My Toot Toot」、「I'm So Hot」、「Down Home Blues」などがある。

幼少期

ラサールは、1934年7月16日、8人兄弟の末っ子として[1][2][3]、父ネサニエル・A・アレン・シニア、母ナンシー・クーパー[4][5][6]の間にミシシッピ州サイドン付近の当時「ジ・アイランド」として知られた場所で生まれた。出生名はオラ・デニス・アレンであった[7]。芸名の「ラサール」は新聞に掲載された漫画のキャラクター、バフィー・ラサールが由来であるという[8]

彼女の家族は分益小作で農業を営んでおり、彼女は綿花摘みに加え、その他の仕事もして家族を支えた[4]

彼女は7歳のとき州内のベルゾーナに移住し、以後そこで育てられた[8]。彼女は、ミシシッピ州レフロア郡界隈の地元ゴスペル・バンドのクワイアーで歌った[3]。13歳のとき、彼女は一番年長の兄を頼り、シカゴに移住している[9]

キャリア

ラサールは、カントリーブルースの影響を受け、R&Bのミュージシャンのライヴに飛び入りしたり、曲を書くようになった。1963年頃、ミックス・ラウンジのバーメイドとして働いていた際、彼女は当時チェス・レコードの所属アーティストだったビリー・"ザ・キッド"・エマーソンに出会った。これがきっかけで彼女はチェスと1年間のレコード契約を交わしたものの、レコーディングは行なわれなかった。エマーソンはその後、自身のレーベル、ターポンを立ち上げ、1967年に彼はラサールをこのレーベルでレコーディングした。このときの曲「A Love Reputation」は、地元でまずまずの売上を記録している[7]。この曲のヒット後にチェスは彼女に興味を示し、「A Love Reputation」はチェスからもリリースとなったほか、エマーソン主導でチェス向けのセッションが行なわれ、1968年にさらにシングル2枚が同レーベルよりリリースとなっている[8][10]

彼女は1969年にプロダクション会社、クレヨン・エンタープライゼズ(Crajon Enterprises)を当時の夫、ビル・ジョーンズと立ち上げている[7]。1971年、ラサールはシングル曲「Trapped By A Thing Called Love」をデトロイトのレーベル、ウェストバウンドからリリースした。これはR&Bチャートの1位となりポップ・チャートでも13位まで上昇した。またこの曲は1971年の年間チャートでも85位を記録している。RIAAは、1971年11月30日、この曲をゴールドディスク(100万枚の売上)に認定した[11]。1972年にリリースとなった同名の彼女のデビュー・アルバムを評し、ロバート・クリストガウは「クリストガウのレコード・ガイド:70年代のロック・アルバム」(1981年出版)の中で次のように書いている。「ラサールは第一にソングライターであり、歌手としての存在はその次だと考えられる。だからこそ、彼女の普段の気分についてはプロとして一定の秘匿性が感じられるのであろう。しかしながら、その声には存在感があり、官能的で暖かみに溢れ、知性すら感じさせる。それは、プロデューサーを務めたウィリー・ミッチェルの熟考されたメンフィス・ファンクには理想的である。そして彼女がかなり優れたソングライターであるため、ここに収録された12トラックはどれもプロフェッショナルな喜びをもたらしてくれるのだ[12]。」

彼女はこれに続く「Now Run and Tell That」、「Man Sized Job」も作詞作曲し、それぞれR&Bチャートの3位と4位を記録、ポップ・チャート入りもするなど成功を収めている。彼女は初期のヒット曲はミッチェルが運営するテネシー州メンフィスのハイ・レコーディング・スタジオで、南部で最高と言われるセッション・プレイヤーを迎えてレコーディングされている。彼女は、ヒット曲を出し続け、ウェストバウンドより3枚のアルバムをリリースした。

1976年、彼女はテネシー州ジャクソンに移住し、ABCレコードと契約した。ここでももう一つのヒット曲「Love Me Right」(R&Bチャート10位、ポップ・チャート80位)を生んだ。ABCはMCAに買収され、ラサールはMCAから3枚のアルバムをリリースした。1979年のアルバム『Unwrapped』では、ロッド・スチュワートの「Do Ya Think I'm Sexy」をカバーしている。

1980年、ラサールはアルバム『I'm So Hot』をリリースした。ここには自作曲の「Try My Love」が収録されている。これもヒットとなり、1980年にディスコ/ダンスのクラブでのかなりのエアプレイがなされた[13]。スーパー・ウルフは、「I'm So Hot」をラップにして取り上げた「Super Wolf Can Do It」をリリースしている[14]

彼女はライヴ・パフォーマンスとプロデュースを続けた。彼女が共作者として書いた「Married, But Not To Each Other」がバーバラ・マンドレルの1979年のコンピレーション・アルバム『The Best Of Barbara Mandrell』に収録されている[15]

1982年、ラサールはソングライターとしてマラコ・レコードと契約をし、Z.Z.ヒルを始め同レーベルのアーティストに楽曲を提供した[16]。彼女は自身もレコーディングするように説得され、その結果1983年にアルバム『Lady In The Street』がリリースとなっている。彼女は15年間に渡りマラコでレコーディングを続け、『Right Place, Right Time』(1984年)など高評価を受けることとなるアルバムを次々とリリースしていった。彼女のR&B、ソウル・ブルース、ソウルの楽曲は南部の州の都会のラジオ局でよくかかった。1985年、彼女はロッキン・シドニーのカバー曲「My Toot Toot」で、英国のシングル・チャート6位を記録した。これはラサールにとって唯一の英国チャート入りのヒット曲となった[17]

彼女は、カリフォルニア州のロングビーチ・ブルース・フェスティバルに1984年と1993年に出演した他、サンフランシスコ・ブルース・フェスティバルにも出演するなど活躍の場を広げている。

ラサールは、ウェストバウンドとABC/MCAの時代は、好きな曲を何でもレコーディングできたが、マラコではもっと制限があったと語っている。マラコはブルースのレーベルだったため、彼女にハードなブルースをメインとしてレコーディングするように求めたという[16]

マラコ時代の後には、ラサールは自身のレーベル、オーディナを設立し、いくつかのアルバムをリリースしている。その中にはゴスペル・アルバムの『God's Got My Back』と、カントリーR&Bブルースポップなど、あらゆる要素を混ぜ合わせた『This Real Woman』(2枚組CD)がある[16]

2002年には、ラサールはメンフィスの新興ソウル・ブルース・レーベル、エッコ・レコードへレコーディングを始めた。ここからの1枚目は『Still The Queen』である。

10年以上の歳月を経て、彼女は再びマラコに戻り、2010年にアルバム『24 Hour Woman』をリリースした。

2011年、ラサールはブルースの殿堂入りを果たした[18]

ラサールは、夫スーパー・ウルフ(ジェイムズ・E・ウルフ)と共にジャクソンに住み、ブルース・レジェンド・カフェという名のレストランを開店した[19]。このレストランは市内のイースト・メイン・ストリート436番地に位置していたが[20]、その後閉店した[21]

私生活と死

ラサールは22歳だった1956年、最初の夫のアーティック・クレイグと結婚した。彼は彼女の兄A.J.の勤務先のキャンベル・スープでの同僚であった[1]。2人の結婚生活は長くは続かなかったが、正式に離婚をしたのは、彼女は2番目の夫、ビル・ジョーンズと1969年に結婚したときであった。ジョーンズとは1974年に離婚している。ジョーンズとは共同でプロダクション会社を設立するなど、音楽の仕事をする関係にあった[8][4]。1977年に、彼女はラッパーのスーパー・ウルフと結婚している[9]。彼はディスクジョッキーを務めたほかいくつかのラジオ局の経営にも関わり、牧師となった。2022年に死去している[16]。ラサールとウルフの間にはレイ、ドーン、ブリジットの3人の子供がいる[22][23]

ラサールは心臓に問題を抱えていたことに加え、転んだことに起因する合併症により、2017年10月に右脚を切断した。ラサールは家族の見守る中、2018年1月8日に死去した。83歳であった[2][24][25]

レガシー

2009年にラサールを讃えるミシシッピ・ブルース・トレイルの標識(マーカー)が彼女の育ったベルゾーナに設置された[7]。2013年、2014年と彼女はブルース音楽賞の女性ソウル・ブルース・アーティスト賞にノミネートされている[26][27]。2015年6月6日には、ラサールはリズム・アンド・ブルースの殿堂入りも果たしている[4]

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク

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