メイン州キタリーポイントに,父Andrew Jacksonと母 Mary Annの三男として生まれた。長じてニューハンプシャー州ポーツマスに移る。1869年マサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に15歳で入学,文学会Social Union会長,学長ウィリアム・スミス・クラーク主導の実験に参加する等徐々に頭角を現し,1873年卒業。ポーツマス&ドーバー鉄道に技師として勤務後,研究生としてマサチューセッツ農科大学に戻り,植物学と化学を専攻する。1875年からは同学助手(化学)を務めた。
1876年にSarah Almira Dunlapと結婚。同年開拓使に招かれて札幌農学校教授となり,専門の化学,植物学,園芸学,地質学,顕微学の他,演説を含む英語を教えた。1878年に発生したヒグマによる人身事故「札幌丘珠事件」の折は、学生らを率いて加害熊の解剖実習を担当した。在任最後の1年はウィリアム・ホイーラーの後任として教頭心得を務めた。ただ,アメリカから妻を呼び寄せた後,1879年の冬までの間にブルックスら他の外国人教師と不和となる(ただし,帰国後は和解したとみられる)。1880年に離職。いわゆる「クラークの弟子」と言われる1期生を入学から卒業まで見届けた外国人教師はペンハローただ一人である。
1880年に帰国後はハーバード大学サマースクール,ホートン農場試験場勤務を経,ハーバード大学教授エイサ・グレイの推挙により1883年マッギル大学植物学講師となり,翌年教授となった。1910年,病気療養のためイギリスに向かう船上で死去。遺骨は故郷ポーツマスに移送され,サウスセメトリーに葬られた。
著名な教え子に佐藤昌介,大島正健,伊藤一隆,渡瀬寅次郎,内村鑑三,新渡戸稲造,宮部金吾,広井勇等がいる。子孫にDunlap Pearce(1880-1960)。