トマルン
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概要

南宋からモンゴルに使いした趙珙編の『蒙韃備録』ではトマルンに相当する人物を「三公主」と呼んでおり、長公主コジン・ベキ、二公主アラカイ・ベキに次ぐチンギス・カンの三女であったようである[4]。また、『集史』コンギラト部族志では「トルイ・カンより年長の自分の娘のトマルン」との表現があるため、チンギス・カンの四男のトルイより年長であった[5][6]。
諸史料は一致して、「チンギス・カンの娘トマルン」が「コンギラト部族長のアルチ・キュレゲンの息子」に嫁いだことを伝えるが、『集史』は「アルチ・キュレゲンの息子でトマルンの夫」に当たる人物の名前が場所によってバラバラで、シク・キュレゲンやキュレゲン・キュレゲンと表記されることもある[7]。一方、『聖武親征録』/『元史』といった漢文史料では一貫して「チグゥ(赤古/赤渠/赤駒/赤窟)」と表記されており[8]、「トマルンの夫」の名前は「チグゥ」とするのが正しいと考えられている[9]。チグゥは1213年の金朝出兵時点で既に「駙馬(キュレゲン)」と称しているため、チグゥとトマルンの婚姻は1213年以前のことと推定される[6]。
アルチ・キュレゲンの息子チグゥとチンギス・カンの娘トマルンの婚姻と並行してアルチ・キュレゲンの娘オキ・フジンとチンギス・カンの息子ジョチの婚姻も行われており、これは「姉妹交換婚」として対となる婚姻であると考えられている[9]。しかし、ジョチ家はチグゥ家の領地(西寧州)から遠く離れたキプチャク草原を本領としたため、ジョチ家とチグゥ家の婚姻は続かなかった。一方、トルイの息子ジョリケは「アルチ・キュレゲンの孫娘」ブルガイを娶ったと記録されているが、これはチグゥの娘を指しているのではないかと考えられている[10]。
チンギス・カンはチグゥに対し、自らの娘トマルンを嫁がせると同時に4つのコンギラト千人隊をチグゥに委ね、西寧州(現在の青海省西寧市一帯)に派遣した。これに対応するように、『集史』コンギラト部族志でも「チベット方面に派遣した」と記される[1]。これ以後、チグゥ家はコンギラト本家から離れて現在のチベット・アムド地方に含まれる西寧一帯に独立したウルスをかまえるようになる。