USSドビン(1941年頃)
1890年、テネシー州にて生を受ける。1910年、海軍兵学校に入学。1914年、兵学校を卒業して少尉に任官。1917年、中尉に昇進[1]。1934年4月10日から4月17日まで米領サモア知事代行を務める[2]。その後、海軍情報部での短期間の勤務を経て、ラティモアは未だ中佐の階級にあるにもかかわらず、1941年4月に真珠湾を根拠地とする駆逐艦母艦ドビンの艦長に任命された。
1941年4月にオアフ島に到着した直後、物静かで人付き合いを好まない男であったラティモアは、真珠湾を見下ろすことができるアイエア山脈(英語版)でのハイキングに挑んだ。当時はまだ登山道も整備されていなかった。USSドビンの乗組員だったケネス・アイザックス二等事務係下士官(Kenneth Isaacs)の記憶によれば、この直後にラティモアは艦に戻ってきたものの、腕を怪我しており(滑落によるものとラティモアは説明した)、しばらくは腕をギプスで吊っていたという[3]。
1941年7月までに腕は完治し、ギプスも取り外された。その後、51歳のラティモア中佐は、再びアイエア山脈に向かうところを目撃されたのを最後に姿を消した。この時、彼はカーキ色の制服を着用し、古い帽子を被り、杖を手にしていた。
彼が戻らなかったため、数百人の水兵と地元警察が動員され、アイエア山脈での捜索が行われた[3][4]。陸軍のスコフィールド兵舎から軍用犬を連れた捜索隊が派遣されたものの、ラティモアの痕跡を見つけることはできなかった。1941年のうちに海軍による捜査が始まった[5]。しかし、彼の失踪について納得のゆく説明が成されることはなかった。そのため、12月7日の真珠湾攻撃によって忘れ去られるまでは、ラティモア失踪事件は地元の報道で何度も取り上げられ、市井の人々の話題になることも多かった。
1942年7月19日、公的な死亡宣告(declared dead)が行われた[2]。