トーマス・ユーウィンズ
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ロンドンでイングランド銀行の事務職の父親の4人兄弟の末子に生まれた。兄のにデービッド・ユーウィンズ(David Uwins: c.1780-1837)は有力な医師になった。幼い頃から絵の才能を示し、姉の学んでいた学校の絵の教師から指導を受けた。ロンドンの学校で学んだ15歳になったの1797年に版画家ベンジャミン・スミス(Benjamin Smith)の弟子になり、ジョン・ボイデルが指揮した、「ボイデル・シェイクスピア・ギャラリー」の版画制作の仕事もしたが、過労と版画制作の単調さに耐えられず、徒弟期間の途中で弟子を止めた。
1798年からロンドンのロイヤル・アカデミーの美術学校で学び、1799年にはアカデミーの展覧会で肖像画を展示した。肖像画家や美術教師として働き、1808年頃にはトマス・デイ(Thomas Day)の児童文学書『サンドフォードとマートン(The History of Sandford and Merton)』やダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の扉絵などやロンドンの出版社のために働いた。版画家のチャールズ・ウォーレン(Charles Warren)の版画の下絵を描き、ルドルフ・アッカーマンが1809年から1829年の間に出版したデザインの歴史に関する書籍(Ackermann's Repository of Arts)の図版を制作し記事も書いた。
1809年に王立水彩画協会(Royal Watercolour Society)の準会員になり、1813年には正会員となり、1809年から1818年まで、協会の展覧会に継続的に出展した。1810年代には何度か協会の役員を務めた。
ナポレオン戦争が終わった1817年にフランスに渡り、風景画を描き王立水彩画協会の展覧会に出展した。1818年に協会からの借金の問題で水彩画協会を辞任し、1820年にはスコットランドに移りエディンバラで2年間、肖像画などを描き、成功した。1824年からは健康のためにイタリアに移り、冬をローマで過ごし、チャールズ・ロック・イーストレイクやジョセフ・セヴァーンといったイギリス人画家と知り合った。特にイーストレイクと親しくなり、作品のスタイルに影響を受けた[4]。翌春はナポリを訪れ、リチャード・アクトンと出会い、いくつかのイタリアの風景画を依頼されました。彼は数年間ナポリに滞在し、イギリスやオーストリアからの旅行者の肖像画を描いた。
1829年からイタリアを題材にした作品をロンドンの民間美術団体「British Institution」の展覧会やロイヤル・アカデミーの展覧会に出展し、イギリスに戻った後1833年に王立アカデミーの準会員に選ばれ、1838年に正会員に選ばれた。1843年にバッキンガム宮殿庭園の「クイーンズ・パビリオン」の壁画を描いた。1844年には王立アカデミーの図書館長や王室の絵画コレクションの管理者を務め最初の美術品目録を完成させた。1847年から1855年の間はチャールズ・ロック・イーストレイクの後任としてナショナル・ギャラリーの館長を務めた。
1854年に罹った病気のために、1855年に様々な役職を辞して現在のサリー (イングランド)サリーのStaines-upon-Thamesに移り、療養したが1857年に亡くなった。