ドゥーワップ
大衆音楽における合唱の形式の一つ
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ドゥーワップ(Doo-wop、doowop、doo wop)は、リズム・アンド・ブルースから派生したポピュラー音楽の声楽様式、またはその一ジャンルである。ドゥワップ、ドゥー・ワップ、ドゥ・ワップ、ドゥーアップなどの表記もある[1]。主旋律を歌うリード・ヴォーカルに対して、背景の声部がリズミカルなハーモニーや掛け声を加えることを基本とする[1][2]。
1940年代末から1950年代にかけて、ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴ、デトロイト、ロサンゼルスなど、アメリカ合衆国の大都市におけるアフリカ系アメリカ人コミュニティのなかで形成された[3][4][5][6]。簡素な楽器伴奏またはア・カペラに近い形で歌われ、単純なビート、緊密な声楽ハーモニー、「doo-wop」などの意味をもたない音節の反復を特徴とする。歌詞では恋愛や失恋など、若者の感情を扱う明解な題材が多く用いられた[7][8]。
1950年代には、独立系レコード会社、ラジオ、テレビ番組、ダンス会場などを通じて、黒人コミュニティだけでなく白人の若者にも広まり、当時のロックンロールと密接に関わる音楽となった[9][10][11]。担い手は黒人ヴォーカル・グループが中心であったが、白人、イタリア系アメリカ人、ラテン系、人種混成のグループも活動し、各都市に地域的なシーンが形成された[12][13][14]。
1950年代後半から1960年代初頭にかけて商業的な最盛期を迎え、その声楽様式は後のソウルミュージックやヴォーカル・グループ、ロックの歌唱にも影響を残した[15][16]。1960年代末以降には、1950年代の音楽を回顧する作品やリバイバルも現れた[17]。アメリカ国外にも影響が及び、日本ではザ・キング・トーンズ、山下達郎、シャネルズ/ラッツ&スター、鈴木雅之らの活動を通じて受容されてきた[18][19]。
音楽的特徴
声部構成とハーモニー
ドゥーワップは、声楽グループによる緊密なハーモニーを中心とする。3人から6人ほどで歌われ、なかでも4人または5人編成が一般的であった。主旋律を担当するリード・ヴォーカルのほか、高音域のテナー、中低音域のバリトン、低音域のベースなどによって構成される[8][5]。
背景の声部は和音を支えるだけでなく、対旋律、掛け声、コールアンドレスポンスによって曲に動きを与える。高音のテナーやファルセットと、低音のベースを対照的に用いることも多い。ベース歌手は、低音の反復句を歌うほか、弦楽器のベースや打楽器を模した音型を担当し、声だけでリズムや伴奏の一部を形成した[8][5][20]。
無意味音節とリズム
ドゥーワップでは、「doo-wop」「doo-wah」など、それ自体には特定の意味をもたない音節が用いられる。これらの音節は歌詞の内容を伝えるためではなく、和声、リズム、音色を形づくる役割を担い、リード・ヴォーカルの背景で反復される[7][21]。
街頭などで楽器を用いずに歌ったグループは、スウィング風の裏拍で拍を取り、無意味音節を打楽器の代わりとして用いた。ベース歌手が低音楽器に相当する声部を担当することで、声楽だけでも一定のリズムと伴奏感を作り出すことができた。こうした音節はドゥーワップに固有のものではないが、その反復的・擬音的な用法が、この様式を識別する特徴の一つとなった[22]。
伴奏と楽曲形式
ドゥーワップはア・カペラで歌われる場合もあるが、無伴奏音楽を意味する語ではない。録音や舞台では、ピアノ、ギター、ベース、ドラムなどによる簡素な伴奏が加えられることも多かった。したがって、楽器の有無よりも、リード歌唱と背景声部によるR&B系のヴォーカル・グループ・ハーモニーが中心的な特徴となる[8]。
和声には、主和音からvi、IV、Vを経て主和音へ戻るI–vi–IV–V進行がしばしば用いられた。この循環進行は、ロジャース&ハートの「ブルー・ムーン」や、ホーギー・カーマイケルとフランク・レッサーによる「ハート・アンド・ソウル」など、1930年代のポピュラー歌曲にみられるI–vi–ii–V進行と近縁のものである。ドゥーワップでは、こうした進行がティン・パン・アレーの歌曲に典型的なAABA形式と結びつき、ロマンティックなバラードを支える定型の一つとなった[9][23]。
歌詞は恋愛、求愛、失恋などを扱うことが多く、単純な反復句や韻を用いた明解な構成をとった。曲の中間部では、リード歌手が語りに近い歌唱を行い、その背景を他の声部が持続音や短い応答で支えることもあった[7][8]。
起源
ドゥーワップは、単一の音楽様式から直接成立したものではなく、音楽的、社会的、商業的な複数の要因が重なって形成された。音楽面では、1930年代から1940年代のアメリカ大衆音楽、ティン・パン・アレーの歌曲、黒人教会のゴスペルと黒人霊歌、ジャズ、ブルース、バーバーショップ音楽、初期R&Bのヴォーカル・グループなどの伝統が関わっている[3][4][24]。
ヴォーカル・グループの伝統
後のドゥーワップにつながる主要な先行例として、インク・スポッツやミルス・ブラザーズなどの黒人ヴォーカル・グループが挙げられる。インク・スポッツの「If I Didn't Care」やミルス・ブラザーズの「Paper Doll」などは、簡素な伴奏、ゆったりしたテンポ、緊密なハーモニーによって、後のドゥーワップに通じる要素を備えていた[25]。
ミルス・ブラザーズの四声によるハーモニーは、さらに古いバーバーショップ・カルテットの声楽的伝統にも連なるものだった[26][27]。また、キャッツ・アンド・ザ・フィドルの「I Miss You So」(1939年)やフォー・ナイツの「Take Me Right Back to the Track」(1945年)なども、ドゥーワップが流行する以前に、後のR&Bヴォーカル・グループに近い声楽表現を示した録音として位置づけられている[28]。
インク・スポッツやミルス・ブラザーズの歌唱は、背景の声部を単なる和音にとどめず、対旋律や擬音的な伴奏として用いた点でも後続のグループに影響した。とくにミルス・ブラザーズは、声によって管楽器や弦楽器を模倣することで知られ、楽器の役割を声楽へ置き換える表現を発展させた[29][30]。
歌唱様式の形成
ドゥーワップに特徴的な声部配置の一つに、高音のテナーが導入部や主旋律を歌い、低音のベースが語りや低音のフレーズを担当する「トップ・アンド・ボトム」の構成がある。この形式は、インク・スポッツのリード歌手ビル・ケニーによって広められたとされる[31]。
レイヴンズの「Count Every Star」(1950年)には、コントラバスの弦をはじく音を模したような低音のヴォーカリゼーションが含まれている。高音のリードと低音のベースを対照させる構成や、背景声部をリズム楽器のように用いる表現は、1940年代末から1950年代初頭のR&Bヴォーカル・グループに受け継がれた[29]。
ジ・オリオールズは、「It's Too Soon to Know」(1948年)などによって、滑らかな高音のリード、簡素な伴奏、ロマンティックなバラードを結びつけ、初期ドゥーワップの歌唱様式の形成に重要な役割を果たした。こうしたグループの活動を通じて、1930年代から1940年代のヴォーカル・ハーモニーは、戦後都市部の若者を主な担い手とするR&Bの声楽様式へと展開した[32][33]。
名称の成立
音楽様式としてのドゥーワップは1940年代末から1950年代にかけて成立し、すでに広く流行していたが、「doo-wop」という名称が印刷媒体で確認されるのは、流行が終わりに近づいた1961年のことである。『シカゴ・ディフェンダー』紙がマーセルズの「Blue Moon」に言及した際に、この語を用いたとされる[34][15]。
この名称は、ラジオDJのガス・ゴサートが作ったと説明されることもある。しかし、ゴサート自身は命名者であることを否定し、すでにカリフォルニアで、この種の音楽を分類する語として用いられていたと述べた[35]。このため、同時代の演奏者や聴衆が当初から一貫して用いたジャンル名というより、すでに存在していた声楽様式をまとめて示す名称として普及したと考えられている[35][15]。
「doo-wop」は、それ自体には特定の意味をもたない音節である。1945年にデルタ・リズム・ボーイズが録音した「Just A-Sittin' and A-Rockin」には、この種の音節を用いた背景歌唱が現れる。ヒット曲のリフレインで「doo-wop」が和声的に歌われた初期の例として、ターバンズの「When You Dance」(1955年)が挙げられる[21]。また、ファイヴ・サテンズの「In the Still of the Night」(1956年)では、中間部に「doo-wop, doo-wah」と聞こえる背景歌唱が用いられた[36]。
発展

戦後都市部の若者文化
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国の都市部では、ヴォーカル・ハーモニーを中心とする若者の音楽文化が発展した。とりわけ東海岸の大都市、シカゴ、デトロイト、ロサンゼルスなどのアフリカ系アメリカ人コミュニティでは、十代の若者が少人数のグループを結成し、街頭や地域社会のなかで歌唱技術を磨いた[3][4]。
若者たちは、街角、アパートの玄関前、学校の廊下や洗面所、橋の下など、声がよく響く場所に集まって練習した[37][38]。楽器を購入したり演奏法を習得したりしなくても参加できる声楽グループは、仲間同士でハーモニー、リード歌唱、低音声部などの役割を分担し、技術を競い合うことのできる表現形態であった。こうした場では、黒人教会のゴスペルや霊歌に由来する和声と感情表現が、R&Bや当時のポピュラー歌曲と結びつけられた[22][39][20]。
ドゥーワップは娯楽であると同時に、人種隔離下の都市に暮らす黒人青年が、公共空間で仲間集団を形成し、自らの声を表現する文化でもあった。一部の研究では、このような歌唱活動が、抑圧的な人種秩序のもとに置かれた若者による集団的な自己表現として位置づけられている[39]。
商業的な普及
初期の代表的なヴォーカル・グループには、ジ・オリオールズ、ファイヴ・キーズ、スパニエルズなどがあった。彼らは1940年代末から1950年代初頭にかけて、若者の恋愛や失恋を扱うバラードを、滑らかなリード歌唱と緊密なハーモニーによって表現した[3][5]。
1950年代半ばになると、ヴォーカル・グループは従来のバラード歌唱に、意味をもたない音節、低音歌手によるリズム的なフレーズ、リードと背景声部の応答などを積極的に取り入れた[40][15]。ザ・ムーングロウズ、ペンギンズ、フラミンゴズなどのグループは、小規模な独立系レコード会社から録音を発表し、R&B市場だけでなくポップ市場でも知られるようになった[16]。
録音された楽曲は、地域のラジオ局、レコード店、ダンス会場、劇場公演などを通じて広められた。録音技術と独立系レコード会社の発達によって、街角や学校を活動の基盤としていたグループにも商業録音の機会が生まれ、地域ごとに形成された声楽様式が全国の聴衆に届けられるようになった[41][3]。
民族的・人種的な広がり
ドゥーワップの主要な担い手はアフリカ系アメリカ人のグループであったが、その歌唱様式は白人やラテン系の若者にも受容された。ニューヨークでは、ブロンクスやブルックリンなどの労働者地区に住むイタリア系アメリカ人の若者が、教会、学校、街角などでハーモニーを学び、重要な担い手となった[12][13]。
イタリア系アメリカ人を中心とするグループには、ディオン&ザ・ベルモンツ、エレガンツ、ミスティックス、デュプリーズなどがあった[12][13]。ロサンゼルスなどでは、メキシコ系アメリカ人や異なる民族的背景をもつ若者によるグループも結成された。メキシコ系アメリカ人の歌手にとって、ア・カペラによるロマンティックなハーモニーは、メキシコのバラードや声楽的伝統とも結びつけやすいものであった[14][42]。
人種混成のグループも活動した。ザ・ティーンエイジャーズでは、プエルトリコ系のハーマン・サンティアゴが作った楽曲の原型が、のちにフランキー・ライモンの声に合わせて改作され、「Why Do Fools Fall in Love」として録音された[43]。黒人と白人のメンバーからなるグループには、デル・ヴァイキングスやクレスツなどがあった。こうした広がりによって、ドゥーワップは黒人都市文化を基盤としながらも、複数の民族的背景をもつ若者が参加する音楽となった[44]。
地域的展開
ドゥーワップは、全国で均一に形成されたのではなく、それぞれの都市における人口移動、教会や学校の文化、劇場、ラジオ局、レコード店、独立系レコード会社などを基盤として発展した。各地域のグループは共通する声楽様式を用いながらも、ゴスペル、ブルース、ポピュラー歌曲などの影響の現れ方や、録音・流通の仕組みに違いがみられた[3][45][14]。
北東部
1940年代末から1950年代にかけて、ニューヨークからフィラデルフィア、ボルチモア、ワシントンD.C.に至る北東部は、ドゥーワップの主要な形成地となった。南部から移住したアフリカ系アメリカ人が多数居住する都市では、教会のゴスペル、R&B、ポピュラー歌曲が若者の街頭歌唱を通じて結びつけられた[13]。
ニューヨークでは、レイヴンズ、ドリフターズ (アメリカ合衆国の音楽グループ)、ドミノズなどの黒人ヴォーカル・グループが、ゴスペルに由来するハーモニーとR&Bを結びつけた。人種隔離と住宅事情によって黒人住民が特定の地区に集住するなか、若い歌い手は街角、アパートの玄関前、地下鉄のホーム、学校、遊び場などでグループを結成した[38]。
独立系レコード・プロデューサーのボビー・ロビンソンは、1946年にレコード店を開き、のちに複数のレーベルを通じて、レイヴンズをはじめとするヴォーカル・グループを録音した[46]。1956年には、ブロンクスを拠点とするフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズの「Why Do Fools Fall in Love」がR&B、ポップ双方の市場で成功し、ライモンは黒人と白人の若者から支持された初期の黒人ティーン・アイドルの一人となった[47][48]。
ニューヨークはイタリア系アメリカ人によるドゥーワップの中心地でもあった。ディオン&ザ・ベルモンツ、クレスツ、エレガンツなどは、ブロンクス、マンハッタン、スタテンアイランドなどの労働者地区を活動の基盤とした[12]。黒人とイタリア系住民の関係には緊張も存在したが、ラジオ、レコード、劇場、街頭歌唱を通じて、黒人ヴォーカル・グループの音楽が広く受容された[49]。
フィラデルフィアでは、南部から移住した黒人住民が増加し、南部の世俗音楽と宗教音楽が地域のR&B文化に流入した[50]。ターバンズ、シルエッツ、リー・アンドリュース&ザ・ハーツなどが、小規模な独立系レーベルを通じて録音を発表した[51]。ターバンズの「When You Dance」は1955年に全国的なヒットとなり、シルエッツの「Get a Job」は1958年にポップ、R&B双方のチャートで1位を記録した[52][51]。
フィラデルフィアを拠点としたテレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』は、黒人アーティストの音楽と、それに伴うダンスを全国の若者へ広めた。一方、番組の会場では黒人の若者を排除する入場方針がとられており、黒人文化に由来する音楽を白人の若者文化として放送するという矛盾を抱えていた[53]。
ボルチモアとワシントンD.C.では、ロイヤル劇場やハワード劇場が、いわゆるチトリン・サーキットの重要な会場となった。これらの劇場は、南部から移住した黒人とその子どもたちが、プロの歌手や演奏者に接することのできる芸能教育の場としても機能した[33]。
1947年にボルチモアで結成されたジ・オリオールズは、ソニー・ティルの柔らかい高音テナーを中心に、簡素な伴奏によるロマンティックなバラードを歌った。「It's Too Soon to Know」(1948年)は、『ビルボード』の「Race Records」チャートで1位、ポップ・チャートで13位を記録し、黒人ヴォーカル・グループによる初期のクロスオーバー成功例となった[33][32]。
中西部
シカゴは、ニューヨークと並ぶ録音産業の拠点であり、1940年代末から1950年代初頭にかけて、独立系レコード会社が黒人音楽市場で大きな役割を果たした。1950年代半ばにヴォーカル・グループによるR&Bがポップ市場へ進出すると、地元のレコード会社は市内の若いグループを積極的に録音するようになった[54][45]。
シカゴの若者も、街角、廊下、地下鉄、タイル張りの室内などでハーモニーを練習した。南部から移住した黒人住民が多かったことから、シカゴのグループにはゴスペルやブルースの影響が比較的強く現れた[55]。ヴィー・ジェイ・レコードはスパニエルズやデルズなどを、チェス・レコードはムーングロウズやフラミンゴズなどを録音した。なかでもムーングロウズは、1950年代を代表する商業的成功を収めたヴォーカル・グループの一つとなった[56]。
デトロイトでは、レコード店と小規模な録音所が、地元のブルース歌手やヴォーカル・グループに録音の機会を提供した。ジョー・ヴォン・バトルは1945年にヘイスティングズ通りでレコード店を開き、店の奥に設けた簡素なスタジオで、ブルースやドゥーワップの録音を制作した[57]。
1946年に創設されたフォーチュン・レコードも、1950年代のデトロイトR&Bを支えた独立系レーベルの一つであった。同レーベルから録音を発表したディアブロズのリード歌手ノーラン・ストロングは、クライド・マクファターの影響を受けた高音の歌唱で知られ、若いスモーキー・ロビンソンにも影響を与えた[58]。
1957年、ヴォーカル・グループのマタドアーズを率いていたロビンソンは、プロデューサーのベリー・ゴーディと出会った。ゴーディは、ゴスペル、R&B、ドゥーワップを基盤としながら、黒人と白人の双方の市場に届く音楽を制作しようとした[59]。マタドアーズから改称したミラクルズの「Bad Girl」(1959年)はドゥーワップ様式の楽曲であり、モータウンから発売された最初期のシングルの一つとなった。デトロイトのドゥーワップは、のちのモータウン・サウンドへつながるヴォーカル・グループ文化の基盤の一つとなった[60]。
西海岸
ロサンゼルスでは、黒人起業家が運営する独立系レコード会社と、市内の高校を基盤としてドゥーワップのシーンが形成された。ドゥーツィー・ウィリアムズやジョン・ドルフィンらは、高校生を中心に結成された地元のグループを録音し、地域のラジオ局やレコード店を通じて楽曲を流通させた[14]。

ワッツ地区のフリーモント高校の同級生を中心に結成されたペンギンズは、ドゥーツィー・ウィリアムズの制作によって「Earth Angel」を録音した。同曲は1954年にR&Bチャート1位を記録し、ロサンゼルスのヴォーカル・グループが全国的に知られる契機となった[14]。
ロサンゼルスでは、フリーモント、ベルモント、ジェファーソンなどの高校から多くのグループが生まれた。黒人だけでなく、メキシコ系、イタリア系、ポーランド系など、異なる背景をもつ若者による人種混成のグループも活動した。メキシコ系アメリカ人の聴衆や歌手にとって、ドゥーワップのア・カペラ歌唱とロマンティックなハーモニーは、メキシコのバラードや声楽文化を想起させるものでもあった。西海岸のドゥーワップは、黒人都市文化を基盤としつつ、ロサンゼルスの多民族的な若者文化のなかで独自の広がりをみせた[42]。
音楽産業と人種関係
市場カテゴリーと独立系レコード会社
ドゥーワップは、第二次世界大戦後に形成されたリズム・アンド・ブルースの市場と、その録音・流通を担った独立系レコード産業のなかで発展した。『ビルボード』誌は1942年から黒人市場向けレコードのチャートを掲載し、当初の「Harlem Hit Parade」、のちの「Race Records」という名称を、1949年に「Rhythm and Blues」へ変更した。同誌の記者ジェリー・ウェクスラーが提案したこの名称は、従来の「レイス・ミュージック」に代わる音楽産業上の呼称として広まった[61][62]。
初期のR&Bは、共通する音楽的特徴だけでなく、主として黒人の演奏者と黒人の聴衆を結びつける市場カテゴリーでもあった。大手レコード会社が十分に扱わなかったこの市場では、小規模なレコード会社、プロデューサー、レコード店、ラジオDJ、地域の配給業者などが録音と流通を担った[63]。街角や学校で結成されたドゥーワップ・グループにとって、地域の独立系レーベルは、商業録音を行い、ラジオやレコード店を通じて地域外の聴衆へ届くための重要な経路となった[41]。
1944年から1955年にかけて、黒人音楽を専門とした有力な独立系レコード会社の多くは、ユダヤ系アメリカ人の経営者によって所有または共同所有されていた[64]。こうした経営者と黒人音楽家の関係は、黒人音楽の録音・流通を拡大させる一方、契約条件、著作権、印税の配分などをめぐる不均衡も伴った。
たとえば、サヴォイ・レコードのハーマン・ルビンスキーは、多くの黒人音楽家を録音した一方、その経営姿勢をミュージシャンから厳しく批判された。ロバート・チェリーとジェニファー・グリフィスは、ルビンスキー個人に向けられた批判を認めつつ、その商慣行を、競争が激しく契約上の問題が広くみられた戦後の独立系レコード産業全体のなかで位置づけている[65]。
クロスオーバーとカバー盤
1950年代から1960年代前半にかけて、R&Bとロックンロールの境界は、後世に考えられるほど明確ではなかった。ラジオDJのアラン・フリードは、自らが放送した音楽を示す呼称として「ロックンロール」を広めたが、その番組で扱った楽曲の多くはR&B市場から生まれたものだった[62]。
1954年には、クロウズの「Gee」とコーズの「Sh-Boom」が、R&B市場からポップ・チャートへ進出した。「Sh-Boom」は、黒人ヴォーカル・グループによるR&B録音が主流のポップ市場で成功した初期の重要な例となった。その後、カナダの白人グループ、クルー・カッツによるカバー盤がポップ・チャート1位を記録し、コーズの原曲を上回る商業的成功を収めた[16][20]。
黒人アーティストの楽曲を白人歌手やグループがカバーし、原曲以上の宣伝や流通を得ることは、1950年代の音楽産業で繰り返しみられた。こうしたカバー盤はR&B由来の音楽を白人の若者市場へ広めた一方、原曲を制作した黒人歌手が同等の経済的利益や知名度を得られないという問題も示した[16][20]。
人種隔離と若者文化
ドゥーワップは、黒人コミュニティを基盤に発展した一方、そのレコードや公演は白人の若者にも広く受容された。1955年から1959年にかけて、四声を中心とするハーモニー、簡素な伴奏、リード歌唱と背景声部の応答を特徴とする楽曲が、ポピュラー音楽のチャートで大きな存在感を示した[9]。
黒人と白人の若者が同じ公演に参加し、人種混成のグループが街頭で歌うようになると、白人至上主義者や保守的な立場の人々は、R&Bやロックンロールを既存の人種秩序や白人青年の道徳に対する脅威とみなした[10][11]。
音楽の受容が人種的境界を越えて進む一方、公演会場やテレビ番組では人種隔離が継続した。黒人音楽とそこから生まれたダンスが全国の白人若者へ紹介されながら、黒人の若者がその番組や会場から排除される場合もあった。ドゥーワップの商業的普及は、人種間の文化的交流を促すと同時に、音楽の制作、流通、消費をめぐる不平等を可視化するものでもあった[53]。
最盛期と変容
商業的最盛期
ドゥーワップは1950年代半ばから1960年代初頭にかけて商業的な最盛期を迎えた。1950年代後半には、プラターズ、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、モノトーンズ、シルエッツなど、ドゥーワップと関連づけられるグループがR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも成功を収めた[16][43]。
フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズの「Why Do Fools Fall in Love」は、1956年にR&Bチャート1位、ポップ・チャート6位を記録し、十代の黒人歌手が人種を越えた若者市場で支持を得た代表例となった[47][48]。シルエッツの「Get a Job」は1958年にR&B、ポップ双方のチャートで1位となり、意味をもたない音節とリズミカルな背景コーラスを用いたドゥーワップの様式を主流の聴衆へ広めた[51]。
1960年代初頭にも、ディオンやマーセルズなどによるドゥーワップ系の楽曲がヒットした[15]。マーセルズによる「Blue Moon」は、ティン・パン・アレーのスタンダード曲を、低音の導入句と無意味音節を強調したドゥーワップ様式に作り替えた録音であり、「doo-wop」というジャンル名が印刷媒体で用いられた初期の例とも関係している[34][15]。
ソウルとヴォーカル・グループへの接続
1960年代に入ると、ドゥーワップの声楽様式は消滅したのではなく、ソウルミュージック、モータウン系R&B、ポップ・ヴォーカル・グループなどの新しい様式へ組み込まれていった。コースターズ、ドリフターズ、ミッドナイターズ、プラターズなどの活動は、1950年代のヴォーカル・グループによるR&Bと、後のソウルや主流ポップスをつなぐものとなった[16][3]。
デトロイトでは、スモーキー・ロビンソンのミラクルズが、ゴスペル、R&B、ドゥーワップの声楽的要素を、モータウンのクロスオーバーを志向した制作様式へ結びつけた[59]。「Bad Girl」(1959年)はドゥーワップ様式をもつ初期録音であり、モータウンから発売された最初期のシングルの一つとなった[60]。その後の「Who's Loving You」「Ooo Baby Baby」などにも、リード歌唱と背景声部の応答を中心とするヴォーカル・グループの伝統が受け継がれた[66]。
こうして、ドゥーワップは独立した流行様式としては次第に後退したものの、そのハーモニー、コールアンドレスポンス、低音と高音の対照、恋愛を扱う歌詞などは、1960年代以降の黒人ヴォーカル音楽やポップスに継承された[3][16]。流行期の後には、「ドゥーワップ」という語は新作の音楽を示す呼称というより、1940年代末から1960年代初頭のヴォーカル・グループ録音を回顧的にまとめるジャンル名として定着していった[15][41]。
影響と継承
ロックとポピュラー音楽
ドゥーワップの声楽様式は、1960年代以降のロックやポピュラー音楽にも受け継がれた。フォー・シーズンズやビーチ・ボーイズなどは、複数の声部による緊密なハーモニー、高音のリードと背景コーラスの応答、1950年代のヴォーカル・グループに由来する循環的なコード進行を用いた[16][67]。
ビーチ・ボーイズの初期曲「Surfer Girl」には、ドゥーワップで頻繁に用いられたI–vi–IV–V進行の影響が指摘されている[67]。同グループは、のちにリージェンツのドゥーワップ曲「Barbara Ann」を取り上げた。ビリー・ジョエルが1983年に発表した「The Longest Time」も、声楽を中心とした編曲や無意味音節の反復を用い、ドゥーワップへのオマージュを示した作品とされる[68]。

1970年代のパンク・ロックやプロトパンクにも、ドゥーワップの間接的な影響がみられる。ルー・リードは1960年代初頭にドゥーワップ系の楽曲で初期のリード・ヴォーカル録音を行い、のちのニューヨークのロック・ミュージシャンにも、1950年代のヴォーカル・グループを好んだ者がいた[69]。
ラモーンズなどの初期パンク・バンドは、簡潔なコード進行、リードと背景声部のコールアンドレスポンス、十代の恋愛、車、ダンスといった1950年代から1960年代初頭のポピュラー音楽の主題を受け継いだ。こうした要素は、過去の若者文化への懐古や皮肉を伴って用いられることもあった[70]。
ジャマイカのポピュラー音楽
ドゥーワップは、アメリカ国外ではジャマイカのポピュラー音楽にも影響を与えた。1950年代初頭にアメリカのR&Bレコードが流入し、安価なトランジスタラジオが普及すると、ジャマイカの聴衆は、ナッシュビル、ニューオーリンズ、マイアミなどのAMラジオ局から放送されるR&Bやドゥーワップを聴くようになった[71]。
アメリカ南部で季節労働に従事したジャマイカ人も、帰国時にR&Bレコードを持ち帰った。家庭にラジオやレコードプレーヤーを所有しない人々も多かったため、キングストンの街頭やダンス会場でレコードを大音量で再生する文化が、新しいアメリカ音楽を広める役割を果たした[72]。
ジャマイカの若い歌手のなかにも、アメリカのドゥーワップ・グループと同様に、街角で仲間とハーモニーを練習することから活動を始めた者がいた[73]。ドビー・ドブソンらによる初期録音にもドゥーワップの影響が現れた[74]。
1963年に結成されたウェイラーズも、ドリフターズやインプレッションズなど、アメリカのヴォーカル・グループのハーモニーを初期の声楽モデルとした。ウェイラーズは、ディオン&ザ・ベルモンツの「A Teenager in Love」や、ハーヴェイ&ザ・ムーングロウズの「Ten Commandments of Love」なども取り上げている。ドゥーワップの声部構成とロマンティックな歌唱は、ジャマイカ独自のR&Bを経て、スカやロックステディが形成される前段階のヴォーカル・グループ文化に取り入れられた[75]。
リバイバルとオールディーズ文化

ドゥーワップが独立した流行様式として最盛期を過ぎる一方、1950年代の録音を保存し、再演する動きは早くから現れた。ロサンゼルスのラジオDJ、アート・ラボーは、エルモンテのレギオン・スタジアムで開かれたダンスに出演していたグループの楽曲を集め、1960年にコンピレーション・アルバム『Memories of El Monte』を発表した。これは、比較的新しい過去のヒット曲を「オールディーズ」としてまとめた初期の試みの一つとなった[76]。
1962年には、フランク・ザッパとレイ・コリンズが、ラボーの活動とエルモンテの音楽文化を題材とするドゥーワップ曲「Memories of El Monte」を制作した。録音には、ペンギンズのリード歌手クリーヴ・ダンカンが参加した[76]。
1960年代末には、ドゥーワップを回顧的または批評的に参照する作品が相次いだ。ザッパとマザーズ・オブ・インヴェンションは1968年、架空のドゥーワップ・グループ「ルーベン&ザ・ジェッツ」に扮したコンセプト・アルバム『Cruising with Ruben & the Jets』を発表した[17]。
翌1969年には、1950年代のロックンロールやドゥーワップを舞台上で再演するシャ・ナ・ナがウッドストック・フェスティバルに出演した。こうした活動は、ロックンロールの成立から十数年のうちに、1950年代の音楽と若者文化がすでにノスタルジアの対象となっていたことを示している[77]。
1970年代以降も、旧来のドゥーワップ・グループの再結成、公演、旧曲の再録、リバイバル・グループによるカバーが続いた。イギリスのショワディワディは、1950年代から1960年代初頭のドゥーワップやロックンロールを取り上げ、1974年から1983年にかけて多数の全英トップ40ヒットを記録した[78]。
ドゥーワップと後のヒップホップについては、直接的な音楽上の継承とは別に、社会文化的な類似も指摘されている。いずれも、都市の若者が街角、廊下、公園などの公共空間で仲間集団を形成し、容易に利用できる声や言葉を用いて自己表現と競争を行った。レコード・プロデューサーのボビー・ロビンソンも、1950年代のドゥーワップと1970年代のラップを、都市の街頭から生まれた若者の表現として重ね合わせている[79][20]。
日本での受容
ザ・キング・トーンズと初期の受容
日本におけるドゥーワップの早い時期の実践例として、ザ・キング・トーンズの活動が挙げられる。同グループは昭和30年代から活動し、内田正人のファルセットを中心に、米軍キャンプで培ったドゥーワップのコーラス様式を取り入れた[18]。アメリカのR&Bやヴォーカル・グループの楽曲を基盤としながら、日本語による歌唱と高音のリード・ヴォーカルを組み合わせ、長期にわたって活動した。
1981年7月12日には、シャネルズやザ・キング・トーンズらが出演する「第1回ジャパンドゥーワップカーニバル」が開催されたとされる。この日付にちなみ、7月12日は「ドゥーワップの日」とされている[19]。
山下達郎とシャネルズ
山下達郎は1980年、一人多重録音によるア・カペラ作品『ON THE STREET CORNER』を発表した。同作では、1950年代から1960年代のドゥーワップやヴォーカル・グループの楽曲を、山下自身の声を重ねることによって再構成した。山下の公式サイトは、同作によって「ア・カペラ」「ドゥー・ワップ」「一人多重コーラス」などの語が日本で一般に広められたと位置づけている[80]。
山下は1986年に『ON THE STREET CORNER 2』、1999年に『ON THE STREET CORNER 3』を発表した。第2作では選曲と編曲の範囲を広げ、第3作では再びドゥーワップ曲を中心に取り上げており、このシリーズは山下の継続的な活動の一つとなった[80]。音楽専門媒体でも、同シリーズは日本におけるドゥーワップ関連作品として紹介されている[19]。
1980年には、鈴木雅之をリード・ヴォーカルとするシャネルズが「ランナウェイ」でレコード・デビューした[81]。シャネルズは、リード歌唱、低音声部、複数の背景コーラスを組み合わせたグループとして活動し、デビュー・アルバム『Mr.ブラック』などは日本のドゥーワップ関連作品として位置づけられている[19]。
シャネルズは1983年にグループ名をラッツ&スターへ改めた[82]。改称後も複数声部によるコーラスを活動の重要な要素とし、「め組のひと」「Tシャツに口紅」などを発表した。ザ・キング・トーンズ、山下達郎、シャネルズ/ラッツ&スターの活動によって、ドゥーワップは日本では、アメリカの旧曲を再演する様式としてだけでなく、日本語のポピュラー音楽や独自の録音作品へ取り入れられた。
その後の継承
鈴木雅之はソロ活動の開始後も、R&B、ソウル、ヴォーカル・グループの音楽を自身の活動と結びつけてきた。2025年には、シャネルズからのデビュー45周年を記念して『All Time Doo Wop!!』を発表した。ソニーミュージックは同作を、鈴木のルーツ音楽であるドゥーワップに特化した記念ベスト・アルバムと説明している[83]。
同作には、シャネルズおよびラッツ&スター時代の楽曲に加え、鈴木がアマチュア時代から歌ってきた1950年代から1960年代のドゥーワップ曲のカバーも収録された[83]。