ドミティアヌス
ローマ帝国の第11代皇帝
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治世
51年10月24日にローマで生まれる。彼が誕生した当時は、四皇帝時代の混乱の真っ只中にあり、彼の父であるウェスパシアヌスが頭角を現しつつある時であった。
81年9月、兄ティトゥスが重病に伏すと、速やかに行動し、兄が生存中に帝位を掌握した。そのためドミティアヌスが兄の死期を早めたとの噂がたった。
83年には、ブリタニア属州総督のアグリコラがグラウピウス山の戦いに勝利し、その後ドミティアンに呼び戻される。また同年、シャッテン族との戦いがゲルマニアで始まり、これに勝利する。
最初は穏健に始まったその治世は次第に暴虐となり、そのために死後ダムナティオ・メモリアエに処せられた。ユダヤ人やキリスト教徒を迫害したことでも知られるが、歴史学の研究において、実際にはドミティアヌスは迫害を行っていなかったのではないかと考えられている。
スエトニウスの『ローマ皇帝伝』には、教養のある優雅な青年として描かれる。兄と異なり、父のユダヤ遠征には参加していない。父が皇帝に登極すると、次第にその行動は大胆さを増した。
70年にドミティア・ロンギナとルキウス・アエリウス・ラミアを強制的に離婚させ、ドミティアと結婚した。ドミティアはネロ配下の将軍であったグナエウス・ドミティウス・コルブロの次女であった。この結婚は暴力的にはじまったものの、結果としては双方に利益をもたらした。
彼は皇太子として神官などの栄誉職をたびたび受けたが、帝国の行政官職にはつかなかった。政治に関わらなかったため、ドミティアヌスを次期皇帝候補と見たものはいなかったが、兄ティトゥスが死ぬと野心をあらわにして帝位についた。