サンフランシスコの生まれ[ 1] [ 3] 。本名はシゲコ・タカハシ(Shigeko Takahashi)といい、日系の家庭の出であった[ 1] [ 3] [ 4] 。両親がレストランを経営するロサンゼルス で育ち、ヘレンという名の姉妹がいた[ 1] [ 3] [ 5] 。彼女の娘の話では、カトリック 系の学校に通っている間に「ドロシー」と名乗り始めたという[ 3] 。
彼女はプロとしての活動を始める前に、バレエ とタップダンス を学んだ[ 3] [ 3] 。幼い頃から彼女はポアント(つま先)で踊っていた[ 6] 。レストランのある通りの向かい側にはボードビル 劇場があって、その劇場の支配人が彼女の踊りを見て、ダンスのレッスンを勧めた[ 6] [ 5] 。ロシアのバレエ教師に教えを受けた際に、彼女はコサックダンス などのアクロバティックな技巧を習得した[ 6] [ 5] 。
日本が軍国主義への傾斜を深めつつあった1930年代、彼女は中国系のステージネーム「ドロシー・トイ」(Dorothy Toy)を名乗った[ 1] 。彼女が中国名を使ったのは、当時日本人があまり好きではなかったという他に、より短く紙に表示しやすいという理由があった[ 6] 。1934年、彼女とヘレンはディック・パウエル とジョセフィン・ハチンソン (en ) 主演の映画『春の夜明け(Happiness Ahead)』 (en ) のダンスシーンに出演した[ 6] [ 5] 。
この映画には中国系のタップダンサー、ポール・ウィンも出演していた[ 6] [ 5] 。1936年にトイが高校を卒業すると、トイとヘレン、そしてウィンは「ザ・スリー・マージャンズ」(The Three Majong’s )というグループを結成してシカゴ で活動することになった[ 6] [ 5] 。後にヘレンは歌手の道を選んだが、トイはウィンとともに活動を続け、「トイとウィン」というペアを組んだ[ 1] [ 2] [ 3] [ 6] 。優雅さと大胆さを両立させた2人のパフォーマンスは好評を博し、「中国のアステア とロジャース 」と称賛された[ 2] [ 3] [ 4] 。
トイとウィンは、ニューヨーク のパラマウント劇場 などでヘッドライナー を務め、1939年にはロンドン のパラディウムシアター (en ) に出演した[ 2] [ 3] 。2人は、パラディウムシアターに出演した初のアジア系アーティストとなった[ 2] [ 3] 。2人の活躍はステージにとどまらず、映画にもその活動を広げた[ 1] [ 3] 。
2人は1940年に結婚した[ 3] [ 6] 。ただし、トイによればこの結婚はロマンティックな恋愛の結果ではなく、ホテルの予約などを簡単にするには好適だったという[ 6] [ 5] 。順調だった2人のキャリアは、1941年の真珠湾攻撃 によって暗転した[ 3] [ 6] 。日系人であるトイの両親と親戚は、ユタ州 のトパーズ戦争移住センター に強制収容された[ 3] [ 7] [ 6] 。さらにウィンも陸軍に徴兵され、活動を一時停止せざるを得ない状況に追い込まれた[ 3] [ 6] 。そして、彼女の出自が日系であることが密告によって知れ渡り、映画出演や他の出演契約も破棄された[ 1] [ 3] [ 6] 。
ウィンは復員を果たしたものの、PTSD に苦しんでいた[ 3] [ 6] [ 5] 。トイは当時の彼について、「私が踊っていた人とは別人でした」と語っている[ 3] [ 6] [ 5] 。2人は後に離婚した[ 3] [ 6] [ 5] 。
2人は1950年代初頭に舞台に復帰し、サンフランシスコのフォービドン・シティナイトクラブに1960年代まで出演した[ 3] 。さらに1970年代の半ばまで、アメリカを始めカナダ、ヨーロッパ、日本で公演した[ 1] [ 3] [ 7] 。
トイは実業家のレ・フォン(Les Fong)と1952年に再婚し、以後はドロシー・トイ・フォンと名乗った[ 3] [ 6] 。しかし、この結婚も離婚という結末を迎えた[ 3] 。彼女はフォンとの間に2人の子をもうけた[ 3] [ 6] 。ダンスのキャリアから退いた後、彼女はカリフォルニア州の薬局で働き、90代になるまで子どもたちのためのダンス教師を続けた[ 1] [ 3] [ 7] [ 5] 。
2016年、トイを題材としたドキュメンタリー 映画『Dancing Through Life』が制作された[ 3] [ 7] 。彼女は映画内のインタビューで「私たちはダンスが大好きで、皆様にもそれが伝わったと思います」と述べた[ 3] [ 7] 。トイは長寿を保ち、2019年7月10日にカリフォルニア州オークランドの自宅で生涯を終えた[ 1] [ 3] 。