ドワイト・D・アイゼンハワーの家族

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デヴィッド・ジェイコブ・アイゼンハワー
(1863-1942)
アイダ・ストーヴァー英語版
(1862-1946)
ドワイト・D・アイゼンハワー
(1890-1969)
マミー・ダウド
(1896-1979)
リチャード・ニクソン
(1913-1994)
パット・ライアン
(1912-1993)
ダウド・アイゼンハワー
(1917-1921)
ジョン・アイゼンハワー
(1922-2013)
バーバラ・トンプソン
(1926-2014)
エドワード・コックス
(1946-存命)
トリシア・ニクソン
(1946-存命)
ジュリー・ニクソン
(1948-存命)
デイヴィッド・アイゼンハワー
(1948-存命)
フェルナンド・エチャヴァリア=ウリベアン・アイゼンハワー英語版
(1949-存命)
スーザン・アイゼンハワー英語版
(1951-存命)
ジョン・マホーンメアリー・ジーン・アイゼンハワー英語版
(1955-存命)
ラルフ・アトウォーター
アンドレア・カチマティディス
(1989-存命)
クリストファー・コックス英語版
(1979-存命)
アンソニー・チェスロック
(1977-存命)
ジェニー・アイゼンハワー
(1978-存命)
アレックス・アイゼンハワー
(1980-存命)
タラ・ブレナン
(1979-存命)
メラニー・アイゼンハワー
(1984-存命)
アドリアナ・エチャヴァリア
(1969-存命)
アメリア・アイゼンハワー・マホーン
(1981/82-存命)
メリル・アイゼンハワー・アトウォーター
(1981-存命)
クロエ・チェスロック
(2013-存命)
カイア・アイゼンハワー
(2007-存命)
ケイデン・アイゼンハワー
(2013-存命)

祖先

カンザス州アビリーンのアイゼンハワー邸宅。

アイゼンハワー(Eisenhauer, ドイツ語で「鉄のヒューワー/マイナー」)の一家はナッサウ=ザールブリュッケン英語版カールスブルン英語版からアメリカへと渡り、1741年よりヨークに定住し、1880年代にはカンザスへと移った[1]。ドイツ系名である「アイゼンハウアー」(Eisenhauer)が「アイゼンハワー」(Eisenhower)へと英語化された時期については諸説ある[2]。アイゼンハワーのペンシルベニア・ダッチの祖先は主に農民であり、その中には1741年にランカスターに移ったハンス・ニコラウス・アイゼンハウアー(Hans Nikolaus Eisenhauer)も含まれた[3]。ドワイト・D・アイゼンハワーの血統にはイングランド系とスコット系の祖先も含まれていた[4]

両親と兄弟

ハンス・ニコラウス・アイゼンハウアーの曾孫はカンザスの農民のジェイコブ・アイゼンハワー(Jacob Eisenhower)であり、その息子のデヴィッド・ジェイコブ・アイゼンハワー(David Jacob Eisenhowe, 1863年 - 1942年)はドワイト・D・アイゼンハワーの父親にあたる。デヴィッド・ジェイコブは父から農場にとどまるように促されたにもかかわらず大学教育を受けてエンジニアとなった。デヴィッドはカンザス州ホープ英語版で雑貨店を営んでいたが失敗し、一家は貧困に陥った。アイゼンハワー家は1889年から1892年までテキサス州に住んだ後にカンザス州に戻った。デヴィッドは鉄道整備士として働いた後に乳製品店で働いた[5]

ドワイト・D・アイゼンハワーの母親のアイダ・エリザベス・ストーヴァー英語版はドイツ系プロテスタントを祖先に持ち、バージニア州で生まれてカンザス州に移った。アイダとデヴィッドは1885年9月23日にレコンプトン英語版の2人の母校レーン大学英語版のキャンパスで結婚した[5]

1898年までに夫婦は生活を改善し、大家族にあわせた家を手に入れた[6]。夫婦は子供7人もうけ、その全てが男子であり、1人は乳児期に亡くなった。

ミルトンはアメリカの教育管理者として知られており、カンザス州立大学(1943年 - 1950年)、ペンシルベニア州立大学(1950年 - 1956年)、ジョンズ・ホプキンズ大学(1956年 - 1957年)で学長を務めた。1927年1月12日、ミルトンはヘレン・エルシー・イーキン(Elsie Eakin, 1904年 - 1954年)と結婚し、1930年に息子のミルトン・ストーヴァー・アイゼンハワー・ジュニア(Milton Stover Eisenhower, Jr.)、1938年に娘のルース・イーキン・アイゼンハワー(Ruth Eakin Eisenhower)が生まれた。

アールは1965年から1967年にかけてイリノイ州下院議員を務めた。アールは1933年にキャスリン・マッキンタイア・スナイダー(Kathryn McIntyre Snyder)と結婚し、2子をもうけた。

エドガーは1914年にミシガン大学を卒業し[10]、1915年にワシントン州タコマで法律家となった。彼は保守派として知られていた[11]。エドガーは3度の結婚歴がある。1911年に1人目の妻のルイーズ・アレクサンダー・アイゼンハワー(Louise Alexander Eisenhower, 1893年 - 1946年)、1930年に2人目のバーニス・トンプソン・アイゼンハワー(Bernice Thompson Eisenhower, 1902年 - 1948年)、1951年に3人目のルシール・ドーソン・アイゼンハワー(Lucille Dawson Eisenhower, 1921年 - 2012年)と結婚した。エドガーは最初の妻とのあいだにメリル・ジャック・アイゼンハワー(Merrill Jack Eisenhower, 1916年 - 1956年)とジャニス・ルイーズ・アイゼンハワー・コーシン(Janis Louise Eisenhower Causin, 1922年 - 2000年)をもうけた。

近親者

マミー・アイゼンハワー

トーマス・E・スティーヴンスによるマミー・アイゼンハワーの肖像画(1953年)。

アイゼンハワーはテキサス州駐留中にアイオワ州ブーン英語版出身のマミー・ダウドと出会った[1]

ダウドは食肉包装業者のジョン・シェルドン・ダウド(John Sheldon Doud, 1870年 - 1951年)とその妻のエリヴェラ・マチルダ・カールソン(Elivera Mathilda Carlson, 1878年 - 1960年)の2番目の子として生まれた[12][13]。彼女はアイオワ州シーダーラピッズコロラド州コロラドスプリングスデンバー、冬はテキサス州サンアントニオで育った[14]。36歳で引退した彼女の父ジョンは祖父が設立した食肉包装会社のダウド&モンゴメリーを経営し、イリノイ州とアイオワ州のストックヤードに投資していた[12]。母エリヴェラはスウェーデン系移民の娘であった[12]。マミーには姉妹のエレノア・カールソン・ダウド(Eleanor Carlson Doud)、エイダ・メイ・ダウド( Eda Mae Doud)、メイベル・フランシス・"マイク"・ダウド(Mabel Frances "Mike" Doud)がいた[12][13]

2人は出会ってすぐに交際に発展し、アイゼンハワーは1916年のバレンタインデーにプロポーズした[15]。デンバーでの結婚式は当初11月であったが、アメリカの第一次世界大戦への参戦が保留されていたために7月1日に前倒された。夫婦は結婚から35年のあいだに何度も引っ越しを繰り返した[16]

子供たち

アイゼンハワー夫妻のあいだには息子のダウド・ドワイト・"イッキー"・アイゼンハワーとジョン・アイゼンハワーが生まれた。2021年時点で子供が息子だけのアメリカ合衆国大統領はアイゼンハワーが最新である。また彼の後任のうち5人(L・ジョンソンニクソンクリントンG・W・ブッシュオバマ)は子供が娘だけである。

ダウド・アイゼンハワー

ダウド(中央)とその両親のマミー(左)とドワイト(右)。

ダウド・ドワイト・アイゼンハワー(Doud Dwight Eisenhower, 1917年9月24日 - 1921年1月2日)は、ドワイトとマミーの長男である。彼は母の旧姓と父親の名前にちなんで名付けられ、両親からは「イッキー」(Ikky)と呼ばれていた[17][18]

ダウドはテキサス州サンアントニオで生まれ、その後に母と共にコロラド州デンバーに移り、その間に父はメリーランド州キャンプ・ミード英語版に駐在していた[19]

アイゼンハワー・センター英語版にあるダウド・ドワイト・アイゼンハワーの墓。

一家がミード基地に移った後、マミーは地元の16歳少女をメイドとして雇った。彼女は猩紅熱を患って回復していた[19]。1920年12月、クリスマス直前にイッキーは彼女から猩紅熱をうつされた[19]。マミーは必死にイッキーを救おうとし、ボルチモアジョンズ・ホプキンズ病院の専門家に電話をかけたが[19]、彼は1921年1月2日に亡くなった。父ドワイトはこの一件を「人生で最も衝撃的な瞬間であり、結婚関係の多くを破壊した」と述べた[19]。夫妻はメイドの病歴を調べなかった自分たちを責めた[19]

イッキーの死から1週間にも満たない1921年1月7日、彼の遺体はデンバーのフェアモント墓地に埋葬された[19]。アイゼンハワーはイッキーの死について語ることをほとんど躊躇していた[20]。1966年、イッキーはアイゼンハワー大統領センター英語版に再埋葬された。1967年、ドワイトはイッキーの死を「私の人生で最大の失望と惨事、完全に忘れることが出来ないもの」と振り返った[19]。ドワイトは生涯にわたって毎年イッキーの誕生日にはマミーに花を贈った[19]。ドワイトとマミーはイッキーの墓の隣に葬られている[19]

ジョン・アイゼンハワー

ジョン・シェルドン・ダウド・アイゼンハワー(John Sheldon Doud Eisenhower, 1922年8月3日 - 2013年12月21日)はコロラド州デンバーで生まれた[21]。ジョンはアメリカ陸軍に勤務し、父の大統領就任前、就任中、就任後にわたって軍歴を積み、1963年には准将として現場から退き、1974年に完全に退役した。兵役後は作家および軍事史家となり、また1969年から1971年までは父の副大統領を務めていたリチャード・ニクソン政権下で在ベルギーアメリカ合衆国大使英語版を務めた。

ジョン・アイゼンハワーは1947年6月10日にバーバラ・ジーン・トンプソン(Barbara Jean Thompson, 1926年6月15日 - 2014年9月19日)と結婚した。バーバラはケンタッキー州フォートノックス英語版でパーシー・ウォルター・トンプソン大佐(Percy Walter Thompson, 1898年11月8日 - 1974年6月19日)とベアトリス・バーチフィールド(Beatrice Birchfield)のあいだに生まれる。トンプソン大佐は連合国遠征軍の指揮官であった。ジョンとバーバラは息子のデイヴィッド、娘のバーバラ・アン英語版スーザン・エレイン英語版メアリー・ジーン英語版をもうけた。キャンプ・デービッドとの由来ともなったデイヴィッド[22]は1968年にリチャード・ニクソンの娘のジュリーと結婚した。

ジョンとバーバラは39年の結婚生活を経て1986年に離婚した。1988年、バーバラはキャンベル・スープ・カンパニーの元副社長のエドウィン・J・フォルツ(Edwin J. Foltz)と再婚した。彼女は2014年9月19日にペンシルベニア州モンゴメリー郡グラッドウィン英語版で亡くなった。

1988年、ジョンはジョアン・トンプソン(Joanne Thompson)と再婚した。彼はペンシルベニア州キンバートン英語版から引っ越した後、メリーランド州トラップ英語版に住んだ[23]

子孫

脚注

参考文献

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