ドン・フリーマン

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職業
  • 画家
  • 版画家
  • 漫画家
  • イラストレーター
  • 児童文学作家
ドン・フリーマン
ドン・フリーマン
生誕 (1908-08-11) 1908年8月11日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カルフォルニア サンディエゴ
死没 (1978-02-01) 1978年2月1日(69歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カルフォルニアサンタバーバラ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業
  • 画家
  • 版画家
  • 漫画家
  • イラストレーター
  • 児童文学作家
代表作 くまのコールテンくん
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ドン・フリーマン(Don Freeman、1908年8月11日1978年2月1日)は、アメリカ合衆国画家版画家漫画家児童書作家、児童文学イラストレーターである[1]。1930年代から1970年代にかけて活躍した作家である[2]。代表作には、『くまのコールテンくん(Corduroy)』がある。代表作の背景には頻繁にニューヨークタイムズ・スクエアが登場する[3]

アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンディエゴで生まれ、チュラビスタで育つ。父親は衣料品のセールスマンだった。8歳頃、母親が重い病気になり、兄弟と共に厳格な後見人に預けられて育てられる(母親は1918年に死去)[4]

ミズーリ州セントルイスで高校を卒業したのち、サンディエゴ美術学院に進学した。同学院時代はダンスバンドのためのトランペット演奏をしながら、絵を学んだと言われている[1]。この時に後の妻リディア・クーリー(Lydia Cooley)と出会う[4]。大学卒業後、船のオーケストラでのコルネット演奏を行い、それによって、ニューヨークに行くための船賃を稼ぎ[3][5]1928年末に、ニューヨーク州ニューヨークに移住した[3]。このようにフリーマンは、ジャズミュージシャンとしても活動を行っていた。

フリーマンがニューヨークに到着したのは、1929年ウォール街大暴落の数日前であったと言われている。その後、ダンスバンドのミュージシャンとして生計を立てた[5]

ニューヨークで活動を始めたフリーマンはアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに参加し、ジョン・スローン、ハリー・ウィッキー、キャサリン・E・チェリー英語版の下でグラフィックデザインリトグラフを学んだ[6]

兄弟はホテル宿泊業の経営者として知られている、ウォーレン・フリーマン(Warren Freeman)。妻は同じく作家であるリディア・フリーマン(Lydia Freeman)で、最終的に夫婦ともにカリフォルニア州サンタバーバラへと移住し、そこで生涯を過ごした[7]。息子のロイ・フリーマン(Roy Freeman)とはかねてより疎遠で、彼は1966年に父子で話したのを最後に二度と実家に帰らず、フリーマンが生きているうちに和解する事はなかった[8]

1978年2月1日心臓発作で死去[8]。『コールテンくんのポケット (A Pocket for Corduroy)』の最終印刷から2日後の事であった[9][10]。ロイは大学で訃報を聞いた際に「父は和解の機会さえ与えなかった」と失望して葬儀にも参加しなかったが、そのことをひどく後悔していると語っている[8]

作品の特徴

ニューヨークに在住していた1930年代から1950年代初頭にかけて、社会実在論的な立場から自身の作品を制作する、都市生活型のイラストレーターであり、彼の作品の主たるテーマには、頻繁に、ブロードウェイの劇場や政治、サーカスなどが登場していた。

常日頃よりスケッチブックを持ち歩いていることで知られており、その作品には彼がニューヨーク市の街角や劇場、地下鉄で観察した人々の姿が捉えている。彼の作品にはショーガールバワリー・ボーイズ英語版酔っ払い、リンゴ売り、窓ガラス清掃員など、運に恵まれずに暮らしている市井の人々が描かれている。 フリーマンによって描かれた漫画イラストは、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン英語版』『ニューヨーク・タイムズ』『クリスチャン・サイエンス・モニター』などに定期的に掲載されていたという[4]

1936年から1968年まで『Don Freeman's Newsstand』(ドン・フリーマンのニューススタンド)と題する雑誌を自費出版していた。本誌は、最初の10年間は季刊誌として刊行された後、不定期刊行となった。本誌のキャッチコピーは、「Signs of the Times in Lithographs」(リトグラフによって描きだされる、時代の兆候)であった。本誌には、大恐慌期および第二次世界大戦期のニューヨークの日常を記録するとともに、当時有名だった作家などによって寄稿された記事を掲載されていた。また戦後に発刊された号では、第二次世界大戦後のロサンゼルスを生きる人々の生活がイラストで描きだされた。また、この雑誌には、フリーマンが本誌のためにオリジナルで制作したリトグラフ作品が収録されていた[11]

作家としての仕事が展開するにつれ、イラストで用いる色調はより明るいものになっていった。また、テーマとしてもより明るいものを描くようになっていった。

1951年、児童書のイラスト制作を担当するようになった。そのきっかけは、ウィリアム・サローヤンからの依頼であったと言われている。サローヤンは彼に何冊かの絵本のイラストを製作するよう依頼し、それがフリーマンと児童文学作品とが出会うきっかけとなった。サローヤンがイラスト制作を依頼した児童文学作品の中には、彼の代表作のひとつと言われる『人間喜劇 (Human Comedy)』が含まれる[3]

最も大きな影響を与えたのは、風刺画家・油彩画家のオノレ・ドーミエであり、ドーミエの作品を数多く研究していた。特にドーミエの風刺画に関心を持ち、彼の風刺画について研究を重ねたと言われている[3] 。また、フリーマン自身もドーミエよって著された数多くの書籍をもっていた。

生涯で20冊以上もの絵本・児童書の作家、兼、イラストレーターとして活躍した。最も知られているのは絵本『Corduroy』であり、日本では『くまのコールテンくん』として知られる。同作は1984年にアメリカで短編実写映画として制作され[12]、日本でも「世界絵本箱」シリーズの1作として日本語吹き替え版が発売された。1990年代には、オリジナルビデオシリーズのアニメーション作品として販売された。また2000年には公共放送サービス(PBS)のブックワーム・バンチ英語版で、初のカナダ制作のアニメ番組として放映された。

単著で多くの絵本・児童書を出版しているが、妻のリディア・フリーマンも彼の業績に多くの貢献をしている。リディアとの共著には、『オペラハウスのなかまたち (Pet of the Me)』『機関車シュッポと青い しんがり貨車 (Chuggy and the Blue Caboose)』の2冊がある。それ以外にも夫の創作に多大な影響を与えており、フリーマン自身も多くの作品のインスピレーションを彼女から得ていたと言われている。 リディア自身も、著名なアーティストとして知られており、フリーマンによる自伝『Come One, Come All』の中で、「彼女は自分よりも優れた水彩画家であった」と述べている。

自身の作品を音読し、自身の周囲にいる子供たちに読み聞かせることで、自身の作品についてのフィードバックを得ていた[13]。彼自身が、児童書の作品・イラスト制作・出版に関心を寄せる人々に対して語ったところによれば、「子供の本の物語の真髄は単純さでありながら、単純さではない」のだという[14]

1976年、ニューヨーク市を描いた一連の作品群に対して同市から表彰された。ニューヨーク・デイリーニューズは、当時のニューヨーク市長・エイブラハム・ビームがフリーマンに贈呈した表彰状について報じている。表彰状の授与は、当時開催された、フリーマンの個展のオープニングのなかで行われたという[15]

『クリスチャン・サイエンス・モニター』は、ドン・フリーマンが全国的に広く知られていることを示すものとして、1976年に開催されたフリーマンの個展と1978年の回顧展について報道を行っている。これらの展覧会では、フリーマンのドローイング、油絵、版画、および展覧会限定版の『Don Freeman's Newsstand』が展示されたという[16][17][18][19]

フリーマンの死後、リディアは慈善財団を設立[20]。1999年に死去するまで作家活動も続けた[21]。ロイは父の未発表作品の編纂・発表に取り組み、2005年には『子リスのアール(Earl the Squirrel)』を編集して出版。また、ストーリーラインと挿絵のスケッチだけで埋もれていた未完成作品を発見したロイは、この父の遺産をイラストレーターのジョディー・ウィーラーらと共に完成させ、死後30年を経た父子の共著『ドングリさがして(One More Acorn)』として2010年に出版した[8][22]。代表作の『くまのコールテンくん』はB.G.ヘネシーやヴィオラ・デイヴィスなどによって続編が執筆されている[20]

2018年ニューヨーク市博物館英語版で開催された「A City for Corduroy(コールテンくんのための都市)」展で作品が特集展示された。この際にロイが受けたインタビューがYouTubeで公開されている[23]

晩年には自伝小説を改訂し続けていたが出版する前に死去した。数十年後、ロイは従姉妹のナンシー・セッツァー・ルリア(Nancy Setzer Luria)と共にその遺作を編纂し、2021年に『Jigsaw Summer』(ジグソーサマー)として発表した[24][25]

教訓

創造性に関して以下の7つの教訓を残している[26]

  1. 仕事に情熱を注ぎ込む。
  2. 貪欲に探求し、観察する。
  3. 周囲で目にするものに、自分なりの楽しい工夫を加える。
  4. 多様な方法とテクニックを使う。
  5. 他の人が学べるように、制作過程の証拠を残す。
  6. 友達を作り、様々な場所に活動を広げる。
  7. 締め切りが迫っている時は必要に応じてスタジオ、部屋、ホテルなどにこもって集中力を保つ。

作品

脚注

外部リンク

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