ニコライ・ペイコ
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生涯
モスクワに生まれた。1933年から1937年まで通ったアカデミック音楽カレッジで音楽を学び始めた。同校ではイーゴリ・ヴラディミロヴィチ・スポソビン(和声学)やゲンリク・リティンスキー(作曲法)らの薫陶を受けた。続く3年間はモスクワ音楽院で研鑽を積み、ニコライ・ミャスコフスキー(作曲法)、ニコライ・ラコフ(管弦楽法)、ヴィクトル・ツッケルマン(アナリーゼ)らに教えを請うた。1940年に同校を卒業している[3]。
第二次世界大戦中は軍病院に勤務し、1942年から1949年にかけてはモスクワ音楽院で教鞭を執った。1941年から1943年にウファの軍病院に勤めた後にドミートリイ・ショスタコーヴィチと一緒に働く機会があり、影響を受けた。1959年から引退まではグネーシン音楽大学で作曲科の教授を務め、ソフィア・グバイドゥーリナ、アレクサンドル・アルチュニアン、Inna Zhvanetskayaらを教えた。学生には十二音技法の指導を行っていた。
ペイコの出世作となったのは『From the Legends of Yakuta』(1940年)である。大戦中は『劇的序曲』(1941年)や交響曲第1番(1944年-1946年)といった愛国的な作品に取り組んでいた。こうした作品はミャスコフスキーやショスタコーヴィチに称賛された。他には『管弦楽のためのモラヴィア組曲』(1950年)、『イワン雷帝の一夜』、『ジャンヌ・ダルク』、ピアノのためのバラード、ピアノソナタ第1番、ピアノのための変奏曲、ピアノのためのソナチネ第2番、ピアノのためのBylina、ピアノソナタ第2番、2台のピアノのための演奏会用三部作などの作品がある。また、ペイコは戯曲上演のための「純粋な」付随音楽に取り組んだ。
伝統的な作曲家は民謡を自らの音楽語法に取り入れていたが、ペイコはそれ以上だった。彼の音楽は耳障りで不協和な音響で知られ、良質なユーモアを伴った精力的な行進曲のリズムが鐘の音で装飾されている、と形容される。彼は1964年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の栄誉芸術労働者として表彰された。ペイコが十二音技法に取り組み始めたのは1960年代のことである。
栄誉
ペイコは交響曲第1番(1947年)と『モラヴィア組曲』(1950年-1951年)で2度スターリン賞を受賞した他、多くの賞を獲得している。
主要作品
- ピアノのためのバラード(1939年)
- 交響組曲『From the Legends of Yakutia』(1940年、1957年改訂)
- 劇的序曲(1941年)
- ピアノのためのソナチナ=民話(1942年)
- オペラ『Aikhylu』(1942年)
- 交響曲第1番(1944年-1945年)
- 交響曲第2番(1946年)
- ピアノ協奏曲(1943年-1947年)
- 交響組曲『古のロシアから』(1948年)
- 管弦楽のためのモラヴィア組曲(1949年-1950年)
- ソビエト人民の主題による7つの小品(1950年)
- フィンランドの主題によるヴァイオリンと管弦楽のための幻想的協奏曲第1番(1953年)
- ピアノソナタ第1番(1946年-1954年)
- シラーによるバレエ『ジャンヌ・ダルク』(1952年-1955年)
- 交響的バラード(1956年)
- 交響曲第3番(1957年)
- シンフォニエッタ(1959年)
- 室内オーケストラのためのカプリッチョ(1960年)
- ピアノ五重奏曲(1961年
- 弦が気四重奏曲第1番(1962年)
- ヴァイオリンと管弦楽のための幻想的協奏曲第2番(1964年)
- 交響曲第4番(1963年-1965年)
- 弦楽四重奏曲第2番(1965年)
- トルストイによるオラトリオ『イワン雷帝の一夜』(1968年)
- 交響曲第5番(1968年)
- ヴァイオリンと管弦楽のための組曲(1968年)
- Decimet(1971年)
- 交響曲第6番(1972年)
- 協奏交響曲(1974年)
- ピアノソナタ第2番(1975年)
- 弦楽四重奏曲第3番(1976年)
- 交響曲第7番(1977年)
- 弦楽合奏のための悲劇的詩曲(1980年)
- 1968年のオラトリオに基づくオペラ『イワン雷帝の一夜』(1982年)
- 2台のピアノのための演奏会用変奏曲(1983年)
- 交響曲第8番(1985年)