ニコラ・ド・プラトモンターニュ
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パリで生まれた。父親のマテュー・ド・プラトモンターニュ(Matthieu de Plattemontagne:1607/1608-1660)はアントウェルペン出身で海洋画を専門とする画家、版画家で1630年ころからパリで働いていた[2] 。父親のフランドルでの姓はファン・プラッテンベルフ(van Plattenberg)であったが、フランスではプラトモンターニュという姓で活動した。母親はパリ生まれの版画家、ジャン・モラン(Jean Morin: 1595/1605-1650) の妹で、ニコラ・ド・プラトモンターニュは叔父のジャン・モランから版画の技術を学んだ。
プラトモンターニュは父や叔父から美術を学んだ後、当時の有力な画家、フィリップ・ド・シャンパーニュ(1602-1674)の弟子になり、同じころシャンパーニュの工房に入った、シャンパーニュの甥のジャン=バティスト・ド・シャンパーニュ(161-1681)と友人になった。プラトモンターニュの作品はしばしば2人のシャンパーニュの作品と混同されてきて、いくつかのシャンパーニュの作品とされてきたものが近年プラトモンターニュに帰属されることもあった。
1655年から1656年にフィリップ・ド・シャンパーニュの指揮でパリの病院 、ヴァル=ド=グラース(Val-de-Grâce)の装飾画を描いた。1663年に王立絵画彫刻アカデミーに歴史画家として入会が認められ、後に教授の称号を得た。1669年にチュイルリー宮殿の王太子の間の装飾の注文を受けた。
1706年にパリで没した。没後程なく、忘れられた存在となったが20世紀の初めに研究が行なわれ、17点の油彩画と80点ほどの、版画や素描がプラトモンターニュの作品とされた。