ニザーミー・アルーズィー
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名前
生涯
ニザーミーの生没年はともに不詳だが、宮廷で45年間暮らしたという情報から11世紀の末ごろに生まれたと推測されている[1][2]。伝存する唯一の作品である『四つの講話』の中に断片的に記された情報のほかには、ニザーミーの生涯について知る手掛かりはない[1][2][3][4]。それによるとヒジュラ暦504年(西暦1110年又は1111年)に彼は故郷のサマルカンドにいて、詩人のルーダキーに関する情報を集めていたという[1][2]。ヒジュラ暦506年(西暦1112年又は1113年)にバルフのとある商人の宴会の席でウマル・ハイヤームに会い[4][5]、その後3年間ヘラートにいた[1]。
ヒジュラ暦510年(西暦1116年又は1117年)にはニーシャープールにいて飢えそうになったのでトゥースへ行き、同地郊外で宿営しているセルジューク朝スルターン・サンジャルの寵を得ようとした[1]。おそらくはヒジュラ暦511年[2]又はヒジュラ暦512年[1]、ニザーミーはサンジャルの王子のひとりムイッズッディーン・マリクシャーの宮廷詩人であったアミール・ムイッズィーに面会した[2]。ムイッズィーはニザーミーの詩作の技量を試すとともに、自分自身がどのように君主の寵を得ていったかを説明し、ニザーミーを勇気づけた[2]。さらにこの旅の中で、ニザーミーはトゥースのフェルドウスィーの墓に詣で、フェルドウスィーが作品の中に込めた思いを知ろうとした[1]。
ニザーミーはヒジュラ暦514年(西暦1120年又は1121年)にもニーシャープールにいてムイッズィーからフェルドウスィーとそのパトロン、ガズナ朝スルターン・マフムードの逸話を聞いた[1]。さらにヒジュラ暦530年(西暦1136年)にもニーシャープールに戻り、ウマル・ハイヤームの墓を訪れた[1]。このあたりの記述から、西暦1116年ごろから1121年ごろまでの4,5年間、ニザーミーはニーシャープールを住まいにしていたと推定される[2]。なお、生前、バルフでのハイヤームは自分の墓が花の花びらで覆われているであろうと言っていたが、果たして、その通りになっていた[1][2]。
ヒジュラ暦547年(西暦1152年)、ヘラートの近くでセルジューク朝のサンジャルとゴール朝のスルターン・アラーウッディーンとの間で戦闘があり、ニザーミーは敗れたゴール朝の軍隊の中にいて、ともに敗走するという経験をした[1]。以後しばらくの間、彼はヘラートで身を隠して生きていた[2]。代表著作の『四つの講話』はヒジュラ暦551年(西暦1156年)に書かれたようである[1]。そしてこれら以上の彼の生涯についての情報は、いっさい知られていない[1][2][3][4]。『ヴィースとラーミーン』の著者ではないかと推定されたこともあるが、誤りである(じっさいはファフルッディーン・アスアド・ゴルガーニーの著作)[2]。
ニザーミーによると、ルーダキーについては、サマルカンドに住んでいたころデフカーン(地主階層)のアービディーという人物[注釈 2]から情報を得、アービディー自身はそれを自分の祖父から伝え聞いたという[6]。アービディーによると、ルーダキーはサーマーン朝のアミール・ナスル1世と彼の町ブハラを誉め、アミールから褒美を得たという[6]。
『四つの講話』は、ゴール朝の中心家系シャンサブ家の長がアラーウッディーン・フサインであったころに書かれ、スルターン・アラーウッディーンの名代としてバーミーヤーンとトハーリスターンを治めていたフサームッディーン・アリー[注釈 3]に献呈されている[2]。フサームッディーン・アリーは、アラーウッディーンの弟ファフルッディーン・マスウードの息子である[2]。成書年のヒジュラ暦551年(西暦1156年)の時点で、ニザーミーはゴール朝に45年間、奉仕したとのことである[2]。
作品
ペルシア語の散文作品である『四つの講話』(Čahār maqāla)のほかは、完全な形で伝存している作品はない[1]。頌詩やマスナヴィーの断片がいくつか伝わっているが、E. G. ブラウンによると、ペルシア語詩の中では一級作品ではないという[1][3][4]。
『四つの講話』は彼の書作のうち、唯一現存しているものである。この書は本来『逸話集』(『マジュマウン・ナワーディル』)の書名で知られていたが、内容が四種の講話集からなっているため『四つの講話』と呼び習わされるようになったという[7]。本文は書記・詩人・占星術師・医師に関する逸話がそれぞれ10編ほど集められている。人名・年代にいくつかの間違いがあり扱いには注意を要するが、特に詩人に関してはウマル・ハイヤームの他、フィルドゥスィーら著名な詩人の逸話が取り上げられ、貴重な史料となっており、また医師に関してもイブン・スィーナー、アブー・バクル・ラーズィー等の逸話が収録されている。本書はイングランドの詩人エドワード・フィッツジェラルドがウマル・ハイヤーム『ルバイヤート』を訳した際、彼の逸話を本書から採ったため有名となり、英訳、仏訳、伊訳、スウェーデン語訳、日本語訳が存在する。
ニザーミーは、『四つの講話』の序文で、自然科学、認識論、政治に関する問題について詳しく述べている。序文にある「宇宙誌について」は対比的な二行が連句となっていて、ありとあらゆることが二元論的に対置されている。また、ニザーミーは、いわゆる言語的記号体系としての「ラング」のようなものが物事を順序付け、何よりも大きなものであるというイスラーム神学的思想を披瀝する。ここでは、この物事を順序付ける記号体系こそが神であり、不滅にして、古代ペルシア思想における正統なるシャーハーンシャーであるという考えが、ムスリムの語彙で語られる。また、ニザーミーの社会階層に関する考え方は、ペルシア的思惟のみならず、プラトンの『国家論』の影響も顕著である[8]。