ニンファエウム条約 (1214年)
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第4回十字軍がビザンツ帝国を滅ぼした後、フランドル伯ボードゥアン9世はラテン帝国の皇帝にボードゥアン1世として選出され、コンスタンティノープルの一部(残りはヴェネツィア人に与えられたり十字軍に参加した諸侯らで分割された)だけでなく、小アジアの北西地域も所有することを認められた[2]が、領有権の承認は実際の支配を意味するものではなかった。主権を認めても実際に支配するのは皇帝であり、必要であれば武力によって支配権を行使することも可能であった。しかし第4回十字軍遠征後、ボードゥアンはトラキアでの出来事に追われ、1205年4月のアドリアノープルの戦いでブルガリア人の捕虜となる[3]。これによってブルガリア人は周囲の蹂躙を行ったのみならず、小アジアも当面ラテン帝国から無視されることとなり、ニカイアを拠点に皇帝宣言をしたテオドロス1世ラスカリスは権力を固め、ルーム・セルジューク朝に関心を向けるようになった。
ボードゥアンの弟であるアンリ・ド・フランドルは帝位を引き継ぎ、1206年末にニカイア帝国に対する作戦を開始。アンリが注力しはじめた1211年以降本格化し[4]、同年10月15日にリンダコス川(現ムスタファケマルパシャ川)で大勝利を収める(リンダコスの戦い)と、ペルガモン、ニンファエウムに進出するが、テオドロス側のゲリラ戦により、アンリのさらなる進軍は制限された[4]。両軍とも疲弊したため、ニンファエウム条約が両皇帝の間で結ばれることとなり、ラテン帝国の小アジアへの進出が停止された。最終的なラテンの勢力圏はアナトリア北西部、ビテュニア(オプティマテス(Optimatoi))沿岸とミュシアの大部分に限られた。