ハインリヒ1世 (オーストリア辺境伯)
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ハインリヒは初代オーストリア辺境伯レオポルト1世とリヒャルディス・フォン・ズアラフェルトガウの間の息子である。996年にハインリヒが辺境伯位についたとき、ビザンベルクからマルヒ川の間の土地にはまだドイツ人が定住していなかった[1]。1002年、皇帝ハインリヒ2世は、2か所の領地をハインリヒにあたえた。ウィーンの南西の18平方マイルの地と、カンプ川とマルヒ川の間の22ハイドの地である。両方の地とも辺境にあり、前者はハンガリー人の、後者はポーランド人の土地であった[2]。ハインリヒは北から最も大きな脅威に直面していた。999年のボヘミア公ボレスラフ2世の死後、東方辺境領の北部はボレスラフ2世の後継者ボレスラフ3世の残虐行為により不安定になっていたが、ボレスラフ3世はすぐにポーランド公ボレスワフ1世に敗北し、ボレスワフ1世がボヘミア、モラヴィアおよびスロヴァキアの公となった[2]。
ボレスワフ1世は1002年にラウジッツ辺境伯領およびマイセン辺境伯領とバウツェンおよびマイセンの町を手に入れた後、手に入れた土地から皇帝に敬意を表するのを拒んだ。皇帝ハインリヒ2世はリューティチ族と同盟を結び、1003年に攻撃を行い、1004年秋までにボレスワフ1世をボヘミア公位から退位させた。しかし、ボレスワフ1世は1018年までモラヴィアおよびスロヴァキアにおいて権力を維持し、東部地域において脅威であり続けた。1015年および1017年に、ボレスワフ1世は東方辺境領を攻撃し、二度ともハインリヒ1世の軍に敗北を喫した[3]。ボレスワフ1世に二度目に勝利してまもない1018年6月23日、ハインリヒ1世は、「鎧を着たまま」死去したという[4]。
