ハーグ事件
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ハーグ事件 | |
|---|---|
|
日本赤軍が占拠した在蘭フランス大使館と、その様子を隠れてうかがう警備当局者。 | |
| 場所 |
|
| 座標 | |
| 日付 | 1974年(昭和49年)9月14日 - 9月18日 (日本標準時) |
| 概要 | 日本赤軍による人質立てこもりテロ事件。 |
| 攻撃手段 | 脅迫、立てこもり |
| 武器 | 拳銃、手榴弾 |
| 負傷者 | 3人(警察官2人、日本赤軍1人) |
| 犯人 | 日本赤軍(奥平純三、和光晴生、西川純) |
| 動機 | 勾留中の仲間の解放。 |
| 対処 | 日本赤軍の要求受け入れ(要求された身代金は減額) |
ハーグ事件(ハーグじけん)とは、1974年9月14日(現地時間、9月13日)にオランダのデン・ハーグで発生した、日本赤軍による在蘭フランス大使館立てこもり・人質事件。最高幹部の重信房子も関与していたとされ、犯行グループは当局に要求を呑ませ、シリアに逃亡した。
以下、特に断りがない場合日時は日本時間。
1974年7月26日、日本赤軍の山田義昭がパリ=オルリー空港で偽造米ドル所持および偽造旅券行使の容疑で逮捕された。9月はじめ、日本赤軍は勾留中の山田の奪還を図り、構成員の奥平純三・和光晴生・西川純の3人に対し、ハーグ所在の在蘭フランス大使館を襲撃して仏当局と人質にした大使らと山田を交換する交渉を行うよう指令した[1]。
9月10日、3人はスイスのチューリッヒで合流し、鉄道でオランダに入国した[1]。
9月14日午前0時20分、3人はフランス大使館に拳銃・手榴弾で武装して侵入、大使ら11人を大使室に監禁した[1]。
人質を取って大使室に立て籠もった和光らは、「フルヤ」の偽名を使っていた山田の引き渡しに加えて、脱出用の航空機及び「慰謝料」100万米ドルを要求した。この間に人質救出を試みたオランダ警察と銃撃戦になり、警察官2名が重傷を負い、奥平も右上腕部を負傷した[1][2]。
9月15日(現地時間)には、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)のテロリストであるカルロスが本事件に呼応してパリで爆弾テロを起こし2人が死亡、34人が負傷、フランス当局にプレッシャーをかけた[3]。
9月17日、交渉の結果、オランダ政府が30万ドルを払い、フランス政府は要求を呑んで山田を釈放し、国外逃亡用のボーイング707(エールフランス機、機体記号:F-BHSJ)も用意された[2]。また、事件の余波でオランダは、9月17日のユリアナ女王によるパレードを簡素化することになった。
9月18日午前6時7分、山田と金を受け取った3人は人質を全員解放し、同午前6時26分にスキポール空港を飛び立った[1][2]。
その後犯人グループを載せたB707は南イエメンに向かい、同午後2時5分にアデンに降りたが、南イエメン政府に投降を拒否され、燃料の補給を受けて再度出発した。同午後10時にシリアのダマスカス空港に着陸し、戦利品の30万ドルを含む携行物等の全放棄を受け入れてシリア当局へ投降した[1][4]。
ギャラリー
- 事件を報じるニュース映像
- 占拠されたフランス大使館
- 立て籠もり犯との接触を試みる日本大使館職員ら
- 人質に食料を運ぶ警察官ら
- 食料をロープで大使館内に引き上げる様子
- 警察官に保護された、大使館職員の女性ら
- 両手を上げて大使館を出る人質
- 事件を取材する報道陣
- 動員された装甲車と兵士ら
- 空港で機関銃を構える兵士
- 犯行グループの逃亡に用いられたボーイング707
- 滑走路付近を警戒する軍の車両
- 記者会見に臨むヨープ・デン・ウイル首相
- 事件現場を視察するヘンク・プレデルリン防衛大臣
- 解放後のジャック・スナール大使
- 事件を受け、ユリアナ女王は皇太子の日(9月17日)に王室の黄金馬車を用いなかった
- 事件で負傷した警察官に勲章を授与するユリアナ女王
犯人らのその後
判決
その他
人質となったフランス大使であるジャック・スナールは、仏自動車大手・ルノーの会長ジャン・ドミニク・スナールの父である[6]。