ハールヴダン黒王
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サガにおける記述

『アイスランド人の書』、『ヘイムスクリングラ』、『ファグルスキンナ』によれば、ハールヴダンはユングリング家の王、狩人王グズロズの息子であった。『ヘイムスクリングラ』は、その母をオーサ、すなわちアグデル王ハーラルの娘とし、異母兄弟をオーラヴ・ゲイルスタズ=アルヴとしている。『ヘイムスクリングラ』によれば、ハールヴダンの父が殺害されると、オーサは1歳のハールヴダンを連れてアグデルに戻り、ハールヴダンはそこで育てられた。18歳または19歳になると、ハールヴダンはアグデルの王となった。まもなく政治交渉や軍事征服によって勢力を広げ、兄弟オーラヴとヴェストフォル王国を分割した。また、軍事行動によってヴィングルマルクのガンダルヴ王に王国の半分を譲らせた。先祖との関係が定型的であること、アグデルとの結びつきが強いこと、またハールヴダンを主題とする初期のサガが家族関係に触れていないことから、一部の研究者は、ヴェストフォルの先行するユングリング王朝とのつながりは後代の創作であったとみている。征服者であったハールヴダンとその息子ハーラル美髪王を、『ユングリンガタル』で称揚された一族、すなわちハールヴダンが取って代わった家系に結びつけるためであったという[3]。
次に、ハールヴダンはラウマリケと呼ばれる地域を服属させたとされる。ラウマリケの支配権を確保するため、ハールヴダンはまず、以前の支配者であったシグトリュグ・エイステインソンを戦いで破って殺した。続いて、シグトリュグの兄弟で後継者であったエイステインを一連の戦闘で破った。これにより、ハールヴダンはラウマリケだけでなく、シグトリュグとエイステインの王国の中核であったヘードマルクの半分についても支配権を確かなものにした。これらの詳細は『ヘイムスクリングラ』にのみ記されている。
『ファグルスキンナ』と『ヘイムスクリングラ』はいずれも、ハールヴダンの最初の妻を、ソグン王ハーラル・グルスケグ、すなわち「金髭王」の娘ラグンヒルとしている。ハールヴダンとラグンヒルには、祖父にちなんでハーラルと名づけられた息子がいた。二人はこの子を祖父の宮廷で育てさせるために送った。高齢であったハーラル・グルスケグは、死の少し前に孫を後継者に指名した。ラグンヒルは父の死後まもなく亡くなり、若い王ハーラルも病にかかって翌春に死んだ。息子の死を聞くと、ハールヴダンはソグンへ赴き、王号を主張した。抵抗はなく、ハールヴダンはソグンを自らの領土に加えた[3]。
『ヘイムスクリングラ』は、ここでハールヴダン王によるもう一つの征服を記している。ヴィングルマルクでは、ガンダルヴの息子たち、ヒュシング、ヘルシング、ハーケが夜間にハールヴダンを待ち伏せしようとしたが、ハールヴダンは森へ逃れた。軍を集めたのち、ハールヴダンは戻って兄弟たちを破り、ヒュシングとヘルシングを殺した。ハーケは国外へ逃れ、ハールヴダンはヴィングルマルク全体の王となった。
『ヘイムスクリングラ』によれば、同じくラグンヒルという名であったハールヴダンの二人目の妻は、父とハーデランドで出会って彼を殺した「ベルセルク」のハーケによって、家から連れ去られていた。ハールヴダンは彼女と結婚するため、ハーケのもとから彼女をさらわせた。『ファグルスキンナ』はこれらの詳細に触れていない。しかし、両サガは、ラグンヒルとハールヴダンに、やはりハーラルと名づけられた息子がいたという点で一致している。『ファグルスキンナ』と『ヘイムスクリングラ』に見える、より信じがたい主張の一つに、この女性がリンゲリケ王シグルズ・ヒョルトの娘ラグンヒル・シグルズドッテルであったというものがある。これに従えば、ラグンヒルは蛇の目のシグルズの孫、あるいは曾孫ということになる。しかしこれは成り立たないとされる。多くの資料では、蛇の目のシグルズが活動したのは9世紀後半とされ、そうであれば彼はハールヴダン黒王より一世代または二世代後に生まれたことになるためである[3]。
ハールヴダン塚

『ヘイムスクリングラ』、『ファグルスキンナ』、『アーグリプ』、『ノルウェー史』はいずれも、ハールヴダンがハーデランドから帰る途中、ランズフィヨルデン湖の入り江ロイケンヴィークで氷を踏み抜き、溺死したと伝えている。凍った湖に掘られた水飲み場の近くでは、家畜の糞によって氷が弱くなっており、彼の馬とそりは氷を突き破った。ハールヴダンはリンゲリケのステインにある塚、すなわち「ステインのハールヴダン塚」に葬られた[4]。
『ヘイムスクリングラ』の叙述ではさらに、彼の王国の各地域が自分たちの地に墓を置くことを望んだため、遺体を四つに分け、各地域がその一部を埋葬することで合意したという。その結果、古ノルド語で塚を意味する haugr に由来する Halvdanshaugen、すなわち「ハールヴダン塚」と呼ばれる場所が四つ存在することになった。この伝承によれば、リンゲリケに葬られているのは彼の頭だけである[5][6]。
史料
同時代史料にはハールヴダンへの言及はなく、後代の王のサガに記される生涯の詳細は、現代の歴史家によって半伝説的なものとみなされている。『ヘイムスクリングラ』には彼自身のサガが収められているが、スノッリが通常は根拠として用いるスカルド詩がそこには含まれていない。この点に加え、叙述そのものがかなり伝説的であることから、歴史家はその史実性を慎重に扱っている。「黒王」の異名は、彼の黒髪に由来するとされる[7]。
ハールヴダンは、アリ・ソルギルスソンの『アイスランド人の書』(1133年頃)[8]、スノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスクリングラ』(1230年頃)、『ファグルスキンナ』(1220年頃)、『アーグリプ』(1190年頃)、および『ノルウェー史』(12世紀後半)で言及されている。最も詳しい物語は、成立の遅い『ヘイムスクリングラ』に見られる。ラテン語の『ノルウェー史』によれば、ハールヴダンは「in montanis」、すなわち「山地において」の王であった。これは通常、古ノルド語でいうオップランに相当する[9]。これは『ヘイムスクリングラ』に見える伝承と矛盾している。