バッキュリデース
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯

バッキュリデースはケオース島(Κέως)で紀元前520年頃に生まれたとされる。抒情詩人シモーニデースの甥であった。彼はシュラクーサイの僭主ヒエロン(1世、Hiero I of Syracuse)の元に、シモーニデースやピンダロス同様に、客として滞在していたと考えられる。ヒエロンの宮廷において、ピンダロスと彼は敵対関係にあったとも伝えられているが、後世の伝記作者の創作と考えられる。
その作品はヘレニズム時代を通じて、紀元5世紀頃まではよく知られていた。例えば、ローマ皇帝ユリアヌスは彼の作品を読むことが何よりも喜びであると表明していたと伝わっている[1]。しかし西洋中世を経て、彼の作品のほとんどが湮滅してしまい、断片の形でしか伝わっていなかった(約70断片に、合計約100行)。ところが、1896年にエジプトのヘリオポリス・マグナ(現在の El-Ashmunein )で、パピルス写本の詩の集成「詩集メネー(Bakkyridou Menē)」が発見された(全約1300行)[2][3]。この詩集「(メネー・杯)」には、14編の祝勝歌と6編のディテュランボスが含まれており、これによって、その実際の作風を確認することが可能となった[3][1]。
作品

バッキュリデースはヒエロンの依頼で多数の祝勝歌を作り、ピンダロスと並ぶ抒情詩人として知られた。彼の作風は、その『ディテュランボス』で示されているように、ディオニューソス的な騒擾と地上的な賑やかさにあった。彼の祝勝歌は、ピンダロスのそれに比較すると分かりやすく、依頼者の求めに応じて、勝利の祝祭頌歌をうたった[4][3]。
バッキュリデースの作品は、紀元前3世紀にアレクサンドリアの学者によって編集され、9種類の作品ジャンルに応じて、9冊の書籍に纏められていた[注釈 1]。9種類のジャンルは次のようになっている。
- 讃歌(ヒュムノイ、hymnoi、ὑμνοι、諸神讃歌、頌歌、聖歌)
- パイアン(paian, παιάν、アポローン讃歌)
- ディテュランボス(dithyramboi、διθύραμβοι、ディオニュソース讃歌)
- 行列歌(プロソディオナ、prosodia, προσόδιονα)
- 乙女歌(パルテネイア、partheneia, παρθενεια、乙女たちの合唱歌)
- 舞曲(ヒュポルケーマタ、hyporchemata、ὑπόρχημα、軽舞踊歌)
- エンコーミア(enkomia、ἐγκώμια、賞賛の歌、頌歌)
- 祝勝歌(エピニーキア、epinikia、ἐπινίκια、勝利歌、捷利歌)
- エローティケー(erotikē、ἐροτικη、恋愛歌)
バッキュリデースは、「ディテュランボス」と「祝勝歌」(エピニーキア、επινικια)をいたが、これらの他に、「諸神讃歌」(ヒュムノイ)、「パイアン(アポローン讃歌」、「乙女歌(乙女達の合唱歌、パルテネイア)」、「舞曲(ヒュポルケーマタ」、賞賛の歌(エンコーミア)などの多数の詩を造ったが、それらは今日、僅かな断片でしか伝わっていない[1][3]。