バケツ戦争
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| バケツ戦争 | |||||||
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| 教皇派と皇帝派の衝突の第二段階中 | |||||||
名前の由来となったバケツのレプリカ(ギルランディーナ) | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
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教皇派 |
皇帝派 | ||||||
| 指揮官 | |||||||
| Fulcieri da Calboli | Rinaldo dei Bonacolsi | ||||||
| 戦力 | |||||||
| 32,000人 (ザッポリーノの戦い時) | 7,000人 (ザッポリーノの戦い時) | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 死傷者:約500人 | 死傷者:約2,500人 | ||||||
バケツ戦争[1](バケツせんそう、イタリア語: Guerra della secchia rapita)は、1325年にイタリア北部(今日のエミリア=ロマーニャ州)で発生した教皇派と皇帝派の都市国家間の抗争。教皇派のボローニャと皇帝派のモデナが争い、唯一の戦闘であるザッポリーノの戦いでモデナが勝利したことで収束した。
俗説ではモデナの住人がボローニャの井戸からバケツを盗んだことが開戦の原因と言われているが、この説はほとんど誤りである。ある資料によるとバケツは戦利品としてモデナに持ち帰られたものであり、実際はモデナがボローニャのモンテヴェーリオ城を占領したことが開戦の原因とされている[2]。

中世後期からルネサンス期にかけて、北イタリアは神聖ローマ帝国を支持する皇帝派とローマ教皇を支持する教皇派の政治的対立が起こっていた。モデナとボローニャはそれぞれ皇帝派と教皇派に属しており、国境地帯では緊張が高まっていた。
1296年、ボローニャはモデナからバッツァーノとサヴィーニョを奪取した。同年にボローニャは教皇ボニファティウス8世より爵位を与えられた。
1293年から1308年までモデナとレッジョの侯爵であったアッツォ8世・デステは、モデナの貴族から支持を得るためにボローニャと対立した。次のモデナの支配者は神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の代理人のRinaldo dei Bonacolsiであった[4]。Bonacolsiは先代の外交政策を継承し、パルマとレッジョ・エミリアを支配下に置いた。教皇ヨハネス22世はBonacolsiを教会への反逆者として認定し、Bonacolsiの身や財産に危害を加える者には十字軍に相当する免罪符が与えられると宣言した[5]。
戦闘の数ヶ月前、モデナとボローニャの国境紛争は激化した。1325年7月、ボローニャ軍はモデナに侵攻し、緩衝地帯の畑を荒廃させた。8月にはボローニャのポデスタが率いる暴徒集団が2週間かけてモデナの他の地域を荒廃させた[6]。9月になるとマントヴァが攻撃を開始し、同月末にモンテヴェーリオの城主2人が反乱分子に捕らえられ、処刑された[6]。
