バスア・マキン

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バスア・マキン(ウィリアム・マーシャルの銅版画、1640–1648)

バスア・レジナルド・マキン英語: Bathsua Reginald Makin[ˈmækɪn]、1600年頃生 – 1680年頃没)は17世紀イングランドの教育者であり、女子教育を擁護した著書でよく知られている。家庭内と公共圏における女性の地位に関して、新しく現れつつあった批判的議論に対しての反論に貢献をした。マキンは教養があり、イングランドの最も博識な女性であると評され、ギリシア語ラテン語、ヘブライ語ドイツ語スペイン語フランス語、そしてイタリア語を習得していた。マキンは主に女性が男性に従属し、教育のされ得ない弱者と見なす文化や環境の中で、女性や少女が教育を得る平等な権利を主張した。よく知られた論考に、『教育方法に対する異議への答えと宗教、マナー、芸術、言語における古くからの淑女教育を再興するための論』(An Essay to Revive the Ancient Education of Gentlewomen, in Religion, Manners, Arts & Tongues, with an Answer to the Objections against this Way of Education)がある[1]。最初のフェミニストの一人とされている[2]

バスア・マキンは1600年生まれで、聖書の登場人物であるバト・シェバにちなんで名付けられた。ヘンリー・レジナルドまたはレイノルズの娘であり、レジナルドはステップニーにある学校の教員としてラテン語詩のブロードシートや数学で使う器具に関するパンフレットを出版していた[3] 。1616年、マキンは Musa Virginea というラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、スペイン語、フランス語、ドイツ語の詩が含まれた本を出版した[3]。 扉絵には著者は「ロンドンの文献学者であり教員のヘンリー・レジナルドの娘であるバスア・レジナルドである」と記された[4]

1621年、宮廷人のリチャード・マキンと結婚した[4]。2人はウェストミンスターへ引っ越し、8人の子供を持った[3]。バスア・マキンの妹のイザマリアは数学者であるジョン・ペルと1632年に結婚した[3]。マキンはペルと親交があった。ペルの書簡の表現のせいでマキンは誤ってペルの実姉と認識されていた[3]。マキンは物理学者のジョージ・イグリシャムとボールドウィン・ハミーと親しい友人関係を続けていた[5]

教師としての雇用

1640年までにマキンはイングランドで最も教育のある女性として知られていた。マキンはイングランドのチャールズ1世の子供の家庭教師をしており、チャールズ一世の娘のエリザベス・ステュアートガヴァネスでもあった[3][4]イングランド議会イングランド内戦開始の時期にエリザベス・ステュアート王女の身柄を拘束した際、マキンは使用人として王女と共にいた。王女が1650年に亡くなると、マキンは行った仕事に対して恩給を受け取る資格を付与されたものの受け取ることはできなかった[3]。マキンは第6代ハンティンドン伯爵6世のフェルディナンド・ヘイスティングスの娘エリザベス・ランガム(旧姓ヘイスティングス)が1652年に結婚するまでその家庭教師をしていた[3]。夫が内戦でいないときはマキンが子供たちを1人で育てた。マキンは1659年に亡くなった。マキンの妹は2年後に亡くなった[3]

学校

1673年までにマキンとマーク・ルイスは当時ロンドンから4マイル離れたところにあったトッテナム・ハイ・クロスに淑女のための学校を創設した。エリザベス・モンタギューの母であるエリザベス・ドレイクとサラ・スコットはその学校で教育を受けたと言われている[3]。マキンがガヴァネスとして働いていた学校では音楽、歌、ダンスだけでなく英作文、帳簿の付け方、ラテン語、フランス語を教えていた。 もし生徒が望む場合にはギリシャ語、ヘブライ語、イタリア語、スペイン語も学ぶことができた[6]。1673年、マキンは『古くからの淑女教育を再興するための論』と題したパンフレットを配布したが、これは女子教育の状態を議論した内容であった[3]

著述家として

影響

マキンはオランダ人学者のアンナ・マリア・ファン・シュルマンと文通をしており、1659年の女子教育を支持するシュルマンの論文「教養ある乙女」("The Learned Maid") の英訳と共に出版されたシモンズ・バート・ドゥーズへの手紙の中でシュルマンはマキンについて言及している[3] 。ドゥーズはマキンの父親の以前の弟子であり、マキンがイングランドのどの女性よりも最も優れた学者であるという主張の情報源でもある[7][8] 。マキンは1673年に出版された『古くからの淑女教育を再興するための論』の中でシュルマンを賞賛した。マキンとファン・シュルマンはどちらも十分な時間、富、基礎的な知性を維持した女性のみが人文主義教育を受けるべきとした[3]。1694年に出版されたメアリ・アステルの『ご婦人方への真剣な提案』第一部はマキンの主張に対して共鳴しているといえる[9]。マキンは同時代のダイアナ・プリムローズ同様、女子教育についての自らの主張を擁護するため、若い頃にエリザベス1世が受けた人文主義教育に依拠していた[10] 。マキンは女子教育が国にとって敬虔な利益をもたらすと主張する際にもマーガレット・モアやアン・クック・ベーコンを権威のある見本として引き合いに出していた[11] 。1563年にジョン・フォックスによって出版され、イングランドの宗教改革を形作った『殉教者列伝』という書物を書いたアン・アスキューと同様に、マキンは「私たちの宗教改革は女性によって始まり進められたようだ」と主張した[12]。マキンはヨハネス・アモス・コメニウスの書籍にも影響を受け、教育の際にはラテン語ではなく俗語が使われるべきだというジョンの意見を支持した[13]

古くからの淑女教育を再興するための論

『論考』の大英図書館にある刊本の題名ページ

論考は3部構成であり、女子教育への賛成が書かれた手紙から始まり、女子教育に反対する手紙が続き、女性が話すことを擁護し、女子教育を肯定してこの議論を解決する長い第三部で構成されていた[13] 。論考は「ヨーク公の長女であるレディー・メアリー殿下」に捧げられた[6]

論考の3部では女性教育の歴史が簡潔にまとめられており、アスパシアアレテそして、マーガレット・キャンヴェンディッシュを含む優秀であった女性たちの名前も記載されていた。マキンは女性が経済的あるいは政治的な力をほとんど持っていないことを認め、それゆえにマキンは説得によって力を引き出す必要があると主張した。 イングランド内戦では頻繁に見られたように、もし女性が一家の頭であれば女性は「母語を理解し、読み、書き、そして話す」必要があった。 従ってマキンは班昭によってマキンより遠い昔に表現された観点を受け入れていたと言える。マキンは女性は普段公共の場で話さないため、夫との会話や家庭内の仕事を行う際の助けのための修辞法を習う必要があると主張した[13]

遺産

著作

参考文献

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