バトマシン
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八都馬辛の前半生については伝記類がなく、不明な点が多いが、『元史』成宗本紀には1296年(元貞2年)に湖広行省左丞の地位にあって広西の賊を討ったとの記録がある[3]。その後、1297年(大徳元年)3月に江西行省左丞から参議中書省事に抜擢され[4]、さらに1298年(大徳2年)5月には中書右丞に昇格となっている[5][6]。
1303年(大徳7年)、海商の朱清・張瑄らが拘禁されたことを切っ掛けに、朱清・張瑄から賄賂を受け取った事を罪状として、オルジェイ・平章バヤン・梁徳珪・段貞・アルグンサリ・左丞ウルグ・ブカ・参政ミール・ホージャ・張斯立、そして右丞であったバトマシンら中書省の中枢が一斉に罷免される事件が起こった[7]。なお、この朱清・張瑄逮捕に始まる一連の政変は、ペルシア語史料の『ワッサーフ史』でも言及されており、バヤン平章(Bāyān pinjān=平章伯顔)、アブドゥッラー平章(ʿAbdullah pinjān=梁徳珪)、バトマシン(Bātūmasīn=八都馬辛)、ミール・ホージャ参政(Mīr khwāja samjīn=迷而火者)らが失脚したと伝えられている[8][9]。なお、『ワッサーフ史』によると失脚した大臣たちは「南方の酷暑の地」に送られたとされるが、これは「蔡国公張公墓誌銘」で「(中書の大臣らは)事敗れて湖広に貶められた」[10]と記されるのに対応し、バトマシンらは地位を失って湖広行省に送られたようである[2]。
1304年(大徳8年)9月、バトマシンらは失脚した大臣たちは前の地位に戻されたが[11]、『ワッサーフ史』によるとこれは体調の持ち直したオルジェイトゥ・カアンの指示によるものであったという[2]。もっとも、御史中丞の何瑋が「バヤン・バトマシンら姦党は再び用いるべきでない」と訴えた記録があるなど[12]、バトマシンら大臣たちへの悪感情は根深いものがあった[6]。さらにこの後、バトマシンは中書平章政事に昇格となっている[13]。
1307年(大徳11年)正月にオルジェイトゥ・カアンが崩御すると、ブルガン・カトンは宰相格のアグタイ・バヤン・梁徳珪・バトマシンらと組んでオルジェイトゥ・カアンの従兄弟にあたる安西王アナンダの擁立を計画した。なお、『ワッサーフ史』でも「エルジギン部のアグタイ丞相(Aghūtāy)・オルドのアミールであったケレイ(Kerāī)・ウイグル部のバトマシン平章(Bātūmasīn)」らがアナンダ擁立計画の中心人物として名を挙げられている[14]。しかしこれに対して左丞相のハルガスンを中心とする一派が反発し、アユルバルワダを擁立したクーデターが実施され(大都政変)、バトマシンを含めブルガン・カトンに協力した宰相陣は皆処刑されてしまった[15][16]。
脚注
- ↑ 宮 2018, p. 1084.
- 1 2 3 邱 2021, p. 226.
- ↑ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年秋七月]己丑……広西賊陳飛・雷通・藍青・謝発寇昭・梧・藤・容等州、湖広左丞八都馬辛撃平之」
- ↑ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年三月]丁丑……以江西左丞八都馬辛参議中書省事」
- ↑ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳二年五月]壬辰、以中書右丞何栄祖為平章政事、参議中書省事・江西左丞八都馬辛為中書右丞」
- 1 2 楊 2003, p. 205.
- ↑ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年三月]乙未……中書平章伯顔・梁徳珪・段貞・阿里渾撒里、右丞八都馬辛、左丞月古不花、参政迷而火者・張斯立等、受朱清・張瑄賄賂、治罪有差、詔皆罷之。以洪君祥為中書右丞、監察御史言其曩居宥密、以貪賄罷黜、乞別選賢能代之、不報」
- ↑ 邱 2021, pp. 225–226.
- ↑ 宮 2018, p. 793.
- ↑ 『道園学古録』巻18中書平章政事蔡国公張公墓誌銘,「是時、中書大臣有因朱清・張瑄之行賄也。事敗貶湖広、関節近倖求復相位、而江浙省臣之首誣公者亦在中書」
- ↑ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳八年]九月癸丑、車駕至自上都。庚申、伯顔・梁徳珪並復為中書平章政事、八都馬辛復為中書右丞、迷而火者復為中書参知政事、以江浙行省平章阿里為中書平章政事」
- ↑ 『元史』巻150列伝37何瑋伝,「大徳四年、授侍御史、以母病辞。七年、授御史中丞、陳当世要務十條、成宗嘉納之。……賽典赤・八都馬辛等還自貶所、復相位、瑋言『姦党不可復用、宜選正人以居廟堂』。帝深然之。監察御史郭章、劾郎中哈剌哈孫受贓、具服、而哈剌哈孫密結権要、以枉問誣章。瑋率台臣入奏、辨論剴切、章遂得釈」
- ↑ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳九年三月秋七月]丁卯……以大司徒段貞・中書右丞八都馬辛並為中書平章政事、参知政事合剌蛮子為右丞、参知政事迷而火者為左丞、参議中書省事也先伯為参知政事」
- ↑ 邱 2021, pp. 228–229.
- ↑ 『元史』巻22武宗本紀1,「十一年春……安西王阿難答与諸王明里鉄木児已于正月庚午先至。左丞相阿忽台、平章八都馬辛、前中書平章伯顔、中政院使怯烈・道興等潜謀推成宗皇后伯要真氏称制、阿難答輔之。……遂定計、誅阿忽台・怯列等、而遣使迎帝」
- ↑ 邱 2021, p. 225.
参考文献
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
- 陳希「『瓦薩夫史』所見“朱張案”新線索考」『元史及民族与辺疆研究集刊』第41輯、2021年
- 邱鉄皓「見諸波斯史料的一場元代宮廷政変——以『瓦薩甫史』『完者都史』為中心的考察」『伊朗学在中国』第5輯、2021年
- 楊志玖『元代回族史稿』南開大学出版社、2003年。 NCID BA62094153。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000089825。
- ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh)
- (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
- (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
- (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年